【サンプル】Rain, Go Away
憂鬱な話をいくつかしなければならない。
まずは僕の話。中学二年の春からしばらく、僕はそれまでの人生にないほど真剣な恋をしていた。相手は何を隠そう、イブヤ君である。その頃、彼はまだ僕にとって「イブヤ君」だった。
きっかけはこうだ。新学期が始まる少し前のある日、僕はバスに乗っていて、どこへ向かっていたのかもう忘れてしまったが―ともかく降りるとき、うっかり足を滑らせた。肩に掛けていた鞄が滑り落ちて、取り出していた財布は一足先に地面へ転がって、僕も、ああ、間抜けなことに顔から真っ逆さま―。しかし次の瞬間、顔ではなくお腹に軽い衝撃があった。おそるおそる閉じた目を開いてみたら、アスファルトの上に転がっているのは、財布と飛び出した小銭だけだった。すぐ下に鞄がぶら下がっているのが見える。浅黒い腕がそれを握っている。僕の腰を支えているのが、どうやら、もう一方の腕だった。惨事は回避されたのだ、そう気付いた僕は慌てて後ろを振り返る。すみません、と言いかけた声が一瞬止まった。僕と鞄の両方を軽々抱き止めたことにも納得のいく広い胸板と、にっと歯を見せた邪気のない笑顔が、そこにあった。
「大丈夫か、兄ちゃん」
僕の無事を知ると礼も聞かずに去って行った。遠ざかる背中を茫然と見つめた。数日後、始業式の日に、僕と同じ二年一組の教室に入る彼の姿を見つけて僕は仰天する。同い年の体格にはおよそ見えなかった。
結局はそういうところに惹かれたのだ。僕にはない肉体と骨格と力。間近で感じたリアリティに圧倒され、憧れた。雷にでも打たれたようだった。僕は変態なのだろうか、そういう言葉が一切頭をよぎらないわけではなかった。しかし当時の僕はそんな疑いも跳ね飛ばすエネルギーに溢れていた。僕は恋している。本気だ。この思いの一体どこに疾しいところがあろうか。僕はこの恋情を貫かなければならないと思った。それはもはや使命感みたいなものだった。
当時のイブヤ君は野球部のエース。成績は今ひとつだったものの、気さくな人柄で誰からも愛された。時には喧嘩の噂もあったけれど、カツアゲを働いていた他校の上級生を一人でぶちのめしたとか、だいたいそういう話だ。力は強くても私欲のためには決して拳を振るわない、男気にあふれた奴だともっぱらの評判だった。絵に描いたような人気者だ。せいぜい挨拶程度の関係だった僕は、自分から話し掛けることなんて決してできなかったけれど、彼の姿を毎日毎日飽きることなく眺めていた。運よく斜め後方の席になり、浅黒いうなじの中に点々と隠れているほくろの数を数えたりした。どこに幾つあるか今でも覚えている、案外多い。声を掛けるならどんな風にするか、頭の中で何パターンもシミュレーションした。「教科書貸してくれないか」、いや、よく忘れ物してるみたいだから、きっと持ってないな、それじゃ、「教科書貸してあげようか」、出来るだけさりげなく、あれ教科書忘れたの、教科書、……。
その頃お前はもうイブヤ君と仲良しだった。恋人ではないらしかった。お前の恋人の噂は複数、すべて同性か年上かのどちらかで、なんというか、「すすんだ子」だというのがクラスの中での共通認識だった。実際、そういう途方もない噂が説得力を持つくらいに、お前はちょっと異様なほど綺麗な子だった。まあ、事実だよ。果敢にもお前に憧れる男子は複数いたが、みんなすげなく玉砕したようだ。
イブヤ君のお前に対する接し方はそういうのと違う。ざっくばらんで、不思議と下心が感じられないのだ。学校ではいつも一人ですっと立っているような印象のあったお前が、友人らしい軽いお喋りを頻繁に交わしていた相手といえば、彼くらいなものだろう。彼のそういうところも、当時の僕には魅力のひとつとして映った。誰もがつい敬遠してしまう同級生に、なんのてらいもなく接することができる―まるで彼の人格の美しさを表しているようじゃないか。僕もそんな美しい人間になりたいと思った。
作品名:【サンプル】Rain, Go Away 作家名:中町