共犯者はじめました。
「話を聞け!!自分の世界だけで生きるのヤメロ!」
いっそ見事なほどに、二人の会話は噛み合っていなかった。ギルベルトの方はきつく眉を吊り上げて刺々しく声を荒げて怒鳴りつけるものの、少年が幸せそうに笑いながらギルベルトの裸の首に懐いているのだから一向に緊迫感が無い。それどころか、一種微笑ましいような光景に見えなくも無かった。
子供っぽく可愛い顔立ちをした少年はまるで甘える仔猫のように背を伸ばし、ちゅっと小さな音を立ててギルベルトの頬に唇を押し付けた。細いギルベルトの瞳はその瞬間に大きく見開かれ、顔は強張って表情は凍りついた。対照的に少年は興奮気味に頬を染め、褒めてくれといわんばかりに得意そうに胸を張る。
「ギルベルトさんが私のものになれないのでしたら、私がギルベルトさんのものになればいーんですよ、そーゆー訳で、さっそく引っ越してきました!!」
にこやかに晴れやかに、少年は何の気負いも衒いもなくごく当然のようにそう言って、細い頼りなさげな手を大仰にひらめかせた……フランシスへ向けて。否、正確には、フランシスの部屋の前で彼の外出を阻んでいる10個の大きなトランクに向けて。
なるほどとフランシスはようやく納得した。この大荷物はあの少年の引越しの為の荷物だったわけだ。それにしても、家具の一通り揃っている中に引っ越してくるにしては多過ぎる気がするが。少年への文句を考える前にそんなことを思ってしまうあたりに、フランシスの混乱が良く現れていた。
そうして混乱の極みにいるのは、フランシスだけではなかった。フランシスの隣人であり、この騒ぎの当事者とも言うべきギルベルトもまた同じく混乱に陥っていた。無理も無い。彼らの関係を何も知らないフランシスから見ても、この引越しはあまりにも計画性がなさ過ぎだった。先の悲鳴やこの騒ぎから見て、彼は少年が来ることなどまったく予期していなかったのではないだろうか。
少年に指し示されて、ようやくアパルトメントの廊下にぎっしりとトランクが並べられているのに気付いたらしいギルベルトは、もはや茫然自失といった様子で、トランクケースに阻まれて先に進めないフランシスの姿にも気付いているのかいないのかわからない。代わりに、得意げに腕を広げた少年の方がフランシスの存在にようやく気付いた。
「あ、ごめんなさい、お隣さん、これじゃ出られませんよね?」
飛び跳ねるように軽く、少年はフランシスの近くに歩み寄る。やけに身が軽いんだな、とフランシスはちらりと思った。体重の重さなど無いもののように感じさせない足取りは、やはり猫のようで空中を浮きながら歩いているようだった。
「ああ、うん。これ乗り越えるにも難しくってさ。出来れば早いところこのトランクをどけてもらえるとありがたいんだけど…」
「はい、すぐ運びますね」
聞き分けの良い返事を返すと、少年は廊下の手すりから身を乗り出して階下に向けて手を振った。少年一人でここまでトランクを運び込めるとは思えない。おそらくは手伝ってくれたものがいて、その人物へ合図をしているのだろう。
なかなか隣の部屋の状況は複雑なようだが、しかしようやくこれでブランチを食べにいける。
フランシスがやれやれと安堵にも似た溜息をついた時だった。ゆらりとフランシスの視界の隅で影が動いた。
「サディクさん、ヘラクレスさん荷物運ぶの手伝ってくだs…きゃー――ッ!?」
信じられないものを見た。
呆然と呆けて沈黙を保っていたギルベルトが、やおら手摺に乗り出す少年に近づいたかと思うと少年の後ろ襟を引っ掴んで放り投げたのだ。どこにかと言えば、もちろん手摺の向こうに。
このアパルトメントは全体の入り口を潜ってすぐに吹き抜けとなっている玄関ホールがあり、そのホールを囲う三辺に部屋が並ぶ作りをしている。つまり、どの部屋から出てきても、部屋の目の前にある手摺の向こうは1Fの玄関ホールまで遮るものの無い空間が広がっている。ギルベルトは、そこに、小柄な少年を放り出したのだった。
「ちょ、え、うおぉおい!?おま…ッ何してんの、ギルベルト!!!」
思わず、フランシスは声を上げた。幾らフランシスとギルベルトの部屋は2Fでありさほどの高さではないとはいえ、この所業はあまりにも乱暴すぎる。トランクの壁のせいで手摺に近づき下を窺うことも出来ないが、あの小さな子供がどうなったのかとフランシスは狼狽した。
ギルベルトは据わった眼差しでうろたえるフランシスを睨みつけ、「うるせェ」とこたえた。
「テメェにファーストネーム呼びされる筋合いはねーよ。大体、あいつはこんなもんで死なねぇ、ッつーか怪我すらしねぇよ」
忌々しげに唇を噛み、ギルベルトは手摺から階下を睨みつけた。そういえば、落ちたというのに床に叩きつけられるような音はいまだ聞こえていない。そこまで考えたところで、手摺の向こう側から緊張感の無い声が聞こえてきた。
「いたいです!何するんですかギルベルトさん、ヒドイですよ!」
紛れもなく、落とされた少年の声だった。
「黙れッつーの!おい、そこのデカブツ二人!さっさと荷物とそいつ連れて帰れ!」
「ええええ!せっかく引っ越してきたのに!」
「俺は許可してねぇッつーか、あんな量入るか、馬鹿!」
「じゃあ、荷物減らしたら引っ越してきていいですか?」
「く、ん、な!!」
どうやら、投げ落とされた少年はまるきり無事のようだった。きっとサディクとヘラクレスと呼ばれた二人が受け止めたのだろう。手摺に身を乗り出したギルベルトと少年は、しばらく喧喧囂々言い争っていたがやがてしぶしぶといったように少年が引き下がった。少々涙声だったように聞こえたのは、フランシスの気のせいだったのか定かではない。
少年が諦めてしまうと後は早かった。廊下に山と積まれたトランクは、一つ残らず黒い服を着た体格の良い大きな男があっという間に片付けた。そうして、昼を過ぎてようやく、フランシスは自室から外に出ることを許されたのだった。
フランシスが廊下へでると、手摺に凭れて煙草を吹かしていたギルベルトが降り返った。彼は当然ながら、既に服を身につけていた。細く吊り上った目が面白くもなさそうにフランシスを見やる。
「騒がせたな」
たった一言、低く掠れた声でそう言うとギルベルトは踵を返し自分の部屋へ戻ろうとした。それを、フランシスは自分でもまったく無意識に呼び止めた。
「ああ?」
ギルベルトが振り返る。
「あの子、一体なんなの?」
「テメェにゃ関係ねーよ」
取り付くしまもないとはこの事だった。きっぱりと言い渡されて言葉に詰まる。確かに、フランシスにはまるで関係のない話だ。しかし、巻き込まれた以上少しは知る権利があるだろうとも思う。
少年の様子からいってギルベルトと何らかの関係があるのは明白だった。ただの知り合いと言うには年が離れ過ぎているが、兄弟にしては似ていない。親戚の子というには対応が素っ気無さ過ぎる上に、少年の訪問の仕方も突拍子がなかった。むしろ、雰囲気としては同棲を迫る年下の恋人、もしくは押しかけ女房のようにも見えなくは無かった。
「恋人、とかじゃないの?」
率直に尋ねると、ギルベルトの眉はきつく寄って吊り上った。
作品名:共犯者はじめました。 作家名:あめゆき