「たとえその名は呼べずとも」
「あっはっは、あの二人が取っ組み合いで喧嘩とはねえ」
余程おかしかったらしい。半兵衛が涙まで浮かべて笑い転げるのを見て、秀吉は憮然として顔を背けた。真っ直ぐに座っていることもできず、腹を抱えて笑っている。普段は美しくも冷たい微笑の印象が強いだけに、嘘偽りのない自然な笑い声が珍しい。半兵衛のこんな声を聞くのはいつぶりだろうか。
だがいつまでも笑わせておくわけにも行かず、秀吉はごほんと咳払いした。
「笑い事ではないぞ、半兵衛」
「ああ、うん。わかってるよ秀吉」
「子供の諍いではないのだ。城内であのように振舞われては周りに示しが付かん」
秀吉の言うことはもっともであった。あの騒ぎが秀吉まで伝わったということは、大勢の者がそれを見聞きしたということなのである。
親友でもある半兵衛は別格として、秀吉がこのところ最も気に入っている側近は大谷と三成だ。小姓衆として使えていた幼い頃から飛び抜けた才覚を現し、先の賤ヶ岳の戦いでも大きな手柄を立てたことも大きいが、それ以前に人としての相性が良いのだろう。何かというと呼ばれるのはいつもこの二人で、その寵愛ぶりを周囲がやっかむ程だ。
だからこそ、無条件に甘やかしてはならぬと秀吉は考えている。ただ甘やかすのでは他の者が納得せぬし、それは豊臣の在り方ではない。褒美は褒美、罰は罰。そこは一線を引かねばならぬ。
「で、二人は今どうしてるんだい?」
「自室で謹慎しておれと言い渡してきた。小者達が言うには大谷の方から食って掛かったようだが、両成敗と言うことで良いだろう」
「うん、僕もそれでいいと思うよ。それにしても、今頃になって喧嘩とはねえ」
半兵衛はまだ笑い顔だが、目尻の涙だけは指先で拭った。長い睫は濡れて黒々と光っているのに、薄く紅を塗ったような唇が笑いの形を残しているのがやけに艶かしい。それを正視できず、秀吉は再び顔を背けた。
半兵衛の方は、それに気付かぬような顔でまだ笑っている。
「まあ、できればもっと、子供のうちに済ませておいて欲しかったんだけれど」
「子供のうちに?」
「あの子達、不自然なぐらい仲が良かっただろう? そのまま喧嘩もせずに大人になってしまって」
言われてみればその通りだ。大谷と三成が喧嘩をしたところなど、秀吉も見た覚えがない。大谷の方が少し歳上ということもあって、幼い友人の我侭を全て受け入れてしまっていたのだろうか。それとも三成がすっかり委ねてしまっていたのだろうか。
確かに、それは不自然なことのように思う。血の繋がった兄弟とて時には諍い、殴り合うのが自然だ。親友同士でもだ。なのにあの二人には、そういうものが全くなかったようだった。
「言い方は悪いけど、ちょっと異常だったんだよ。でもまさか、今になってとはね」
そこで、急に半兵衛の声音が変わる。
「困ったものだよ」
それまで浮かべていた華やかな笑みを、一気に拭い去ったような声だった。
「あの子達は二人とも、君の覇道を貫くのに必要な力だ。いつまでもいがみ合っているようでは困る。早いうちに仲直りをさせなければ」
「そのようなことは、当人たちに任せればよかろう」
「残念ながら、たぶんそうはいかないだろうね」
細い顎にこれもまた細い指を当て、半兵衛は小さく唸る。
「こじれるよ、この喧嘩は」
「お前はそう見るか」
「喧嘩も初めてなら、仲直りも初めてだからね」
「それは道理、だな」
「しかも幼い頃ならともかく、大人というのはややこしいことばかり考えてしまうから始末が悪いよ。しかも吉継くんは、病を得たばかりでまだ心の整理が付いていない。とても微妙な状態だよ。三成くんも難しい年頃だし、こじれたままになってしまう可能性は大いにあるだろうね」
「それではなんとする」
「少しばかり手を差し伸べてあげる必要はあるだろうね。でもどうしたものかな」
と、半兵衛は今気付いたと言うように首を傾げた。
「ところで秀吉、君はなんで吉継くんを呼ぼうとしたんだい?」
二人の喧嘩は、偶々近くにいた三成に「大谷刑部を呼んで来い」と秀吉が命じたのがきっかけだ。だが秀吉は一体何の用で大谷を呼ぼうとしたのか、それを半兵衛はまだ知らない。
そう問うと、秀吉はまた視線を逸らした。ごく親しい者の前でしか見せないが、何か都合の悪い時の秀吉の癖なのだ。今回はおそらく、照れ隠しである。
「……有馬での湯治を勧めようかと思ってな」
大阪城より北西の山中にある、有馬温泉のことだ。
戦場で受けた傷を癒すために、秀吉が何度も通った湯である。絢爛豪華を好む秀吉らしく、金色の湯が沸くというのが特に気に入ったらしい。数年前には湯殿御殿と呼ばれる別荘まで建てさせていた。
秀吉はその湯の効果を期待したようだ。平安時代から数えられた名湯なのである。
「あの病には湯浴みが良いと聞いたこともあるのでな」
「もしかして、光明皇后の施湯の伝説でも聞いたかい?」
半兵衛が語ったそれは、平安よりもさらに古い時代の伝承だ。
慈悲深い皇后は、貧しき者や病人のために湯屋を建て、そこで自ら人々の体を洗ったと伝えられている。ところがある日、そこに重い業病を患った男が現れて、膿を口で吸い出して欲しいと皇后に請うた。
触れれば感染る病だ。普通ならば逃げ出すところである。だが皇后はそうではなかった。彼女が厭わず全身の膿を吸い出してやると、病人は如来に変じて皇后の信仰を称えたという。
実際のところは、死の間際に尊い人の慈悲に触れ、穏やかに浄土へ旅立ったという話なのだろう。しかしそれ以来、湯浴みが業病に効くと信じられているのは確かだ。
それにしても、と半兵衛は不思議がった。いつもの秀吉は言い伝えなど信じる男ではない。
「そんなものを信じるなんて、君にしては珍しいね」
そう尋ねると、秀吉は顔を背けたままでぼそりと答える。
「信じてなどおらぬ。だが気休めぐらいにはなろう」
「そういうことなら理解するよ。やっぱり君はそういう男だよね」
肩を竦めて少し笑うと、半兵衛は再び思案に戻った。癖のある髪を弄びながら、しばし宙に視線を遊ばせる。
湯治も良いが、いくら名湯でも人の心の軋みまでは治せないだろう。それよりもまず、大谷と三成の仲をなんとかしなければ。
「……いや、もしかしてその手があるかな」
「どうした半兵衛」
「ねえ秀吉。その湯治なんだけど、僕ら四人で行かないかい? 君と僕と、吉継くんと三成くんで。供回りはなるべく少なくしてさ」
半兵衛の出した予想外の奇策に、秀吉は思わず目を見開いた。
確かに今は戦の兆候もない。自ら打って出ようとしなければ、湯治に向かうぐらいの余裕はあるだろう。
「しかし……」
大谷と三成の両方を連れて行くというのはどうだ。先程掴み合いの大喧嘩をしたばかりで、半兵衛も「あれはこじれる」と言ったばかりではないか。無理に一緒にさせておくより、大谷だけを湯治にやって、一度頭を冷やさせた方がいいのではないか?
だが半兵衛は、秀吉の不安を全て見透かしたような顔をした上で、問題ないよと首を振る。
「君の言いたいことはわかっているよ。でも、だからこそ一緒に連れて行くんだ」
作品名:「たとえその名は呼べずとも」 作家名:からこ