「たとえその名は呼べずとも」
大阪の城から有馬まではそう遠くない。同じ摂津の国だ。しかしこちらの方が山奥である分、秋も早いのか紅葉などはもう散り始めていた。
道沿いの村々の軒先には大根など干されていて、既に晩秋か初冬の趣である。半兵衛はそれを見付けては秀吉に話しかけてみたり、紅葉の枝を手折ったりして、この旅を楽しんでいるようだった。秀吉も久々の湯治ということで機嫌が良い。
一方、大谷と三成はというと、これは変わらず険悪なままだ。あの大喧嘩からちょうど一週間が建つのだが、まだ一度も口を利いていない。二人で馬を並べているのだが終始無言である。
(秀吉様と竹中様のお気持ちは在り難いが、これは窮屈よの)
大谷はそう思いつつ、ひっそりと溜息を吐いた。三成のこともあるが、馬に乗っているというのがまたつらい。医師の話では、いずれ足が萎えて馬を駆ることもできなくなるのだそうだ。馬上の旅ができるのはあと何度だろうなどと考え出すと、どんどん暗い心持ちになってしまう。
ちらりと横を見れば、三成もまた鬱々とした顔で馬を進めていた。このような病人と旅をするなど正気の沙汰ではない、とでも考えているのだろうか。
まあ当然よな、と思って大谷は天を仰いだ。いっそ一人で湯治に行けと命じられた方が、あるいは留守を守れと言われた方がどれだけ気が楽であったか。
実際、旅が始まったばかりの頃には、なんとか理由を見付けて城に戻る言い訳も考えてもみた。しかし相手はあの天才軍師殿だ。並の嘘ではすぐに見抜かれてしまう。
どうしたものかと上手い言い訳を探しているうちに、気付けばもう山の中だ。これでは引き返すにも返せない。硫黄の匂いが鼻に届いたところで、とうとう大谷も諦めた。有馬の湯と秀吉の別荘はもうすぐそこである。
別荘に入っても、三成と大谷は並んで座らされた。半兵衛がそう命じたのだ。
「二人共、ここは初めてだったよね」
居心地悪く座る二人の前に、旅装を解いて身軽になった半兵衛が別荘の間取り図を持ってくる。
「こちらが三成くんのために用意させた部屋、それからこちらが大谷くんの部屋だよ。夕餉は揃ってこの広間で食べよう。でもまずは旅の汗を流しておいで。大谷くんはこちらの湯を使うといい」
半兵衛が指差したのは、別荘の敷地内にいくつか設けられた浴室の中でも小ぶりなひとつであった。
「変な遠慮をせずに、一人でゆっくり浸かれた方がいいだろう?」
「……お気遣い、痛み入りまする」
半兵衛の配慮に、大谷は素直に頭を下げる。
聞き方によっては、「病人と同じ湯に浸かりたくない」と言っているだけのようにも思えるのに、半兵衛の口から出るとなぜかそうは感じられないのが不思議だった。続けて「それとも昔みたいに背中を流してもらおうかな」などと、さらりと言ってのける人物だからかもしれない。病と苛立ちに萎れた心が、久々に潤った気がする。
ところがその平穏は、ほんの僅かの間しか続かなかった。
「三成くん、吉継くんが湯を使うのを手伝ってくれるかい?」
「えっ……」
声を上げたのは三成だったが、おそらく大谷も似たような驚愕の表情を浮かべていたに違いない。
「吉継くんはまだ病に慣れてないんだ。万が一、湯船でよろめいたりしたら危ないだろう? 一緒に湯殿に行って、付き添ってあげて欲しいんだ」
「しかし、私は……」
三成はおろおろと口篭る。大谷も全く同じ気持ちだった。その病を三成が避けたのが原因で、先日も殴り合いの喧嘩をしたばかりなのである。しかもその後は全く口を利いてもいない。
(その様子は竹中様も道中で見ていたはずだというのに……この方は一体何を考えておられるのか)
だが二人の困惑など知らぬ顔で、半兵衛はにこにこと笑っている。
「私は……いや、刑部はその……」
「だったら吉継くん、僕と一緒に入ろうか。その代わり三成くんには、秀吉の背中を流すのを任せるから」
「そ、そんな畏れ多いことは……!」
ほとんど悲鳴のような声だった。三成の秀吉への忠節は半ば信仰の域だ。神の背を流せと言われているも同然、うろたえるのも当たり前だろう。だがやはり大谷の世話も嫌であるらしく、困り顔に嫌な汗を浮かべているのが見えた。
これには流石の大谷も堪えかねた。仲違いしたとは言え、かつての友人にここまで露骨に嫌われているのを見せ付けられているようなものなのである。
もう良い、と思った。これほどまでに嫌がる者に手伝いなどさせても、とても落ち着いて湯浴みとは行くまい。ならば一人の方が良い。湯の中で溺れたとしても、それも天命と思うまでよ。
そう思って、大谷がついに口を挟もうとした時だった。
「佐吉」
唐突に、半兵衛が三成の旧い名を呼んだ。三成も大谷もぎょっとして半兵衛の顔を見る。
幼い頃からそうだった。半兵衛がこういう風に、冴え冴えとした月光を思わせる澄んだ声音で相手の名を呼ぶ時は、一切の反論も釈明も許さぬ時だ。
反射的に頭を下げた二人に、半兵衛は同じ声音で淡々と続ける。
「ねえ佐吉。僕と秀吉の間でもね、口に出さなければ伝わらないことがあるんだよ。君はそれでいいのかい?」
う、と小さな呻きが三成から漏れたような気がした。明確な返事は頷きひとつなかったが、半兵衛はそれで気が済んだらしい。
「わかったね。紀之介を頼むよ」
「……は」
今度は短いながらも声を上げて答えた三成と、頭を下げたままの大谷を残し、半兵衛はそのまま広間を出て行ってしまった。
こうなってはもう、半兵衛に言われた通りに湯を使ってくるより他にない。二人は黙りこくったままどちらからともなく立ち上がり、またどちらからともなく半兵衛の示した湯殿へと歩を進めた。
そこは他より小さいと言っても、充分に広い浴室だった。他家の妻女が同行した時のために用意したのか、それとも特別な客があった時にでも使わせるつもりで造ったのか、湯船など大人が五~六名は入ってもまだ余裕がありそうな広さだ。服を脱ぎ着するための間も、湯に浸かる前に体を洗うための間も充分な広さを設けられている。
三成はそこに用意されていた湯帷子に着替えた。三成はあくまで大谷の付き添いで、ここで湯に浸かるわけではない。裾を端折り、襷を掛ければそれで充分なのである。
着物を脱がねばならないのは大谷だけだった。これがまた大層居心地が悪い。他が脱がぬのに、自分だけが裸になるというのはどうにも落ち着かないものだ。それも腫れ物だらけの病の身を晒すとなれば尚更で、帯を解く手も鈍る。
それを見た三成が、おずおずと声を掛けてきた。
「その……手伝うか?」
手が利かぬとでも思ったのだろう。
「要らぬ」
それを大谷は素っ気なく断った。元より何の助けを受けるつもりもない。
だがこれでひとつ分かったことがある。どうやらもたもたしていればいるほど、大谷は三成と不快なやりとりをしなければならないようだ。
どちらが嫌かを天秤に掛けて、大谷は乱暴に帯を抜き取った。醜い姿を人目に晒すのはやはり嫌だが、どのみち避けられぬ上に、余計な不愉快まで背負うぐらいなら早く済ませてしまうに限る。
作品名:「たとえその名は呼べずとも」 作家名:からこ