彼の見た夢
「い、臨也さん。」
声が震える。
「あれ?どうしたの、帝人くん。」
臨也さんは僕の方を振り向き、少し驚いたように、それでいて幸せそうに笑った。
「珍しいね、こんなとこまで来て。…帝人くんにはあんまり痛々しそうなのは見せたくなかったんだけどな。でも、俺に会いに来てくれたのは、すごくうれしい。」
臨也さんはそう言うと、さっきまでの視線へ戻す。
臨也さんの足元には血の水たまりの中で横たわる男性。
こんな風にしたのはもちろん臨也さん本人では無い。
「…どうして、こんな…。」
僕の責めた口調に少し困った顔をして、臨也さんは説明してくれた。
「あー、悪いのはコイツなんだよ。自分のボスの女を奪って愛の逃避行とかしようとしてたみたい、でもそれじゃ部下と愛する人両方に裏切られたボスさんが可哀想でしょう。だから俺がこの人達の居場所をボスさんに教えてあげたの。」
つまりは自業自得。だけど、臨也さんは途中までこの人と相手の女性の味方をして、その逃避行のお手伝いをしていた。
『偶然出会った親切な青年』のおかげで無事に逃避行を遂げられるとそう信じていたそのカップルは幸せそうに笑っていたのも、僕は知ってる。
その親切な青年というのが、臨也さんで、全てはこの人の手の内だったのだけど。
「…相手の、女性はどう、したんですか?」
「あの女?ボス相手に必死に命乞いだよ。」
僕の中で『お願い、この人を殺すのだけは止めて!』と泣き叫ぶ女性が思い浮かぶ。
きっと彼女は涙ながらに必死に頼んだのだろう、だから、この男性は今血だまりの中でもかろうじて生きている。
残念ながら、もう長くは無いのだろうけど。
「おかしかったよ、『私はこの男に誑かされただけ、愛しているのは貴方だけよ。』ってボスに擦り寄ってさ。」
「・・・え?」
「ついさっきまでこの死にかけた男と愛を囁き合ってたくせに、女ってのはほんと強かだよねぇ。」
臨也さんはそれはそれは愉快そうに笑った。
「でさ、もうすぐ死んでしまいそうなこの男にこれ以上罰を与えるのにどうしようかと今考えてたとこなんだ。」
僕ならこの人を変えられる、なんて、どうしてそんな風に思えたのだろう。
僕は本当に大馬鹿だ。
「も…もぅ、止めて下さい。」
「え?」
「もう、充分じゃないですか!これ以上その人は何に苦しめば良いと言うんですか!!」
「帝人くん…どうしたの、突然。」
「だって、だってっ…。」
僕は泣いた。
その男性を憐れんだ。そして臨也さんが怖かった。
「・・・この男に同情でもした?」
そう言った臨也さんの声は冷たい。
良くない雰囲気だと、そう感じた。
「ムカつく、こんな奴が帝人くんの目に留まるなんて。」
「ち、ちがっ。」
「違わないよ、だって君、今まで一度も俺に止めろなんて言わなかったじゃないか。」
ヒューヒューと喉から息が漏れるような音で呼吸をする男を見降ろして、臨也さんは言い放った。
「まだ、楽にはしてあげられないな。」
僕はこの先、一生忘れられないだろう、その時のその男の人の悲鳴を。
まるで獣のようだった。
そんな異常な中で臨也さんはやっぱり笑っていた。
僕はその出来事から臨也さんが行うこと全てに『止めてくれ』と嘆いた。
もう僕も半分壊れかけてたのかもしれない。
僕なら臨也さんを変えられるなんてそんな考えはとっくに消え失せて、ただただ臨也さんのする全てが恐怖だった。
だからそんな僕を臨也さんが嫌がるようになるのは早かった。
「ねぇ帝人くん、いい加減にしてくれる?」
「君には何の損害も無いんだよ?今俺が陥れているのは君の知りあいですらない。何がそんなに気に食わないんだい?」
臨也さんは本当に不思議で仕方無かったみたいだ。
「駄目です…もう、止めてくだ、さい。」
「…俺に言わせりゃ、帝人くんの態度の方が『止めて下さい』だよ。」
呆れたようにため息を吐いて、臨也さんは今日も出かける。
僕はとっくに壊れた涙腺からボロボロと涙を流しながら部屋の隅に蹲った。
自分でもわからない。
どうしてこんなに許せないのか。
そんなに正義感が強いわけでもないのになんで。
そう思っても、もう僕の感情は止まらなかった。
ある日、パシンッと頬に衝撃を受けた。
臨也さんに叩かれた。勿論僕も驚いたけど、それ以上に臨也さんのが驚いてたみたいだ。
臨也さんは自分の手を信じられない、と言う風に見ていた。
「…臨也さん。」
「み、帝人くんが悪いんだよ。俺のやることを全部否定するんだもの。」
臨也さんの声が震えている。
「…僕のことを叩いたってかまいません、だけどもう止めて下さい、全部。」
臨也さんは僕を見る。
今まで一緒に暮らしてきていろんな顔を見てきた。
笑う顔、怒る顔、照れる顔、恥じらう顔、演技の部分もあったかもしれない。
けれど、今僕が見る臨也さんの顔はそのどれでも無かった。
今にも泣きだしそうに、奇妙に歪んだ顔。
「出ていけ!!」
いきなり臨也さんの怒声が響いた。僕は驚いて目を丸くする。
「もう帝人くんと暮らすなんてうんざりだ!!消えてくれ、俺の前から!」
そして、僕は臨也さんの家を出た。
前に住んでいたおんぼろアパートに戻り、僕は変わらない生活を続けた。
毎日をただ普通に生活した。
そんな平凡な僕の周りには、あの頃と同じとは思えない穏やかなのんびりとした日常がある。
もちろん、この日常の裏側には今もあんなふうに恐ろしいことが毎日のように起きているのだろうけど。
もう、非日常は充分だ。
その日の僕はバイトを急きょ延長することになり、すっかり日の落ちた道を速足に家へと向かっていた。
あんまり急いでいたせいで、脇の細道からいきなり出てきた人と思いっきりぶつかって転んだ。
「あ、すいませ」
僕の言葉も待たず、その人は走って去ってしまった。
僕はむっとしつつ、立ち上がり服に付いた泥を落とそうとして気が付く。
僕の服に、べっとりと血が付いていた。
瞬間パニックになったけれど、痛みは無い。
ということは、さっき僕とぶつかった人が血を付けてたわけだ。
一瞬にしていろんな記憶がよみがえり、ぞっとする。
その人が出てきた細道を見た。
街灯の少ないこの道では、その細い道は真っ暗で何も見えない。
けれど嫌な感じがした。
その細道に何かがある。
僕はあんなに非日常は嫌だと思っていたのにまた飛び込んでしまった。
ゆっくりと細道に入る。
人一人が通るのが精いっぱいのその道で、黒い物が落ちていた。
そっと近づいて、しゃがんで良く見た。
「・・・臨也さん?」
相変わらず黒いコートを着て全身黒で染め上げた臨也さんが蹲っていた。
「臨也さん!」
呼び掛けて、揺り動かそうとして手にニチャッとした感触を感じる。
自分の手を見ると黒い液体がびっちょりと付いていた。
でも街灯の下にいかなくたってすぐわかる、この黒い水は全て、血、だ。