セオリー(短編集)
こんなに好きでどうしよう
遥さんが何か言ったので彼女は笑った。形のいい歯並びが見える笑い方。ついでに言うと歯茎までしっかり見えた。さっきから遥さんがずるく思えて仕方ないのに何も喋れなかった。お酒をいつもより早いピッチで呷っているのに彼女が止めてくれないせいだ。宇宙人にさらわれていったどこかの男でさえ酒瓶を取り上げてくれたのに。わざとらしくしゃっくりをしてみたのに(ちゃんとおやじくさいやつじゃなくて、小さく可愛らしく、を心掛けた)。彼女はまだ笑っている。遥さんも笑っている。何がそんなにおかしいんだろう。ちっとも輪に入れずにまたまたお酒を呷る。もうそろそろ追加の注文をしたいのだけれど、今話しかけたら邪魔になるだろうか。考える自分は彼女の恋人なのに。酷く空しい気分になる。たぶん優しい優しい彼女は呑めない遥さんに合わせているのだろう。だけど自分に向けられない優しさに意味はなかった。自分に向けられない可愛らしさに意味はなかった。声をかけようかけようかけよう。遥さんなんか今はどうだっていい。声をかけてキスをすればきっともやもやが全て帳消しになるはずだ。ああどうして今夜は上手く酔えないんだろう。やっぱりいつも通りに発酵蔵で呑めばよかった。
「武藤さん、もうこれ以上呑んじゃ駄目ですよ」
酒瓶が手から滑り落ちた瞬間、やけに大人しく頷いた。