雨の夜に
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後日、山崎に騙されていたことを知って、俺の機嫌は最高に悪くなった。いつの間にか嘘をつくのがうまくなっていたことと、それに気がついてなかったこと。その日はずっと雨だった。前の日もその前もずっと降ってた。ざまあみろ蝉め、と庭を見やった。蝉は雨の日はどこへ行っているんだろう。短命だというけれど、雨でみな死んでしまうんだろか。
首尾がどうなったか聞こうと思ったら、山崎の方から言って来た。雨で早くから暗くなった部屋に灯かりを入れながら、あいつは淡々と話し始めた。
「この前、置屋にツケを払ってきました」
ここらへんまでは良かった。何となく、知ってる気はしていた。ずっと前から追っていた攘夷浪士の中心人物、居所がまるでつかめない中でとある芸者を贔屓にしているという噂を手に入れたらしい。
「副長に言われて置屋と名前を調べたんです。ただ、呼び出してる揚屋は俺なんかじゃ入れる店じゃなくて、副長が伝手を使って探りにいったんです」
「それ、いつの話なんだ」
「探りを入れ始めたのは五月です」
俺はこいつの嘘に騙されてた。よりによって山崎に。馬鹿みてえだ。やり場のない怒りと恥ずかしさがこみ上げる。
「そんなもんさっさと吐けばよかったろ、あの時」
「言えなかったんです」
「黒だったらいずれ俺も知っただろうし、白だったらそこでお勤めは終わりじゃねえかい」
「そうなんですけど」
あの女どうでしたか、と訊いた山崎に土方は黒だった、でも今は違う、と答えたそうだ。そしてこれまでの分のツケを払って来いと言いつけてそれぎり何も言わなかった。通うこと数回、調べが全て結果には繋がらないものとはいえ、ボウズの経費としてはかなり高額だった。以前に一度ツケを払いには行ったが、その時も勘定方には渋い顔をされた。捜査って言うけどねえ、捜査なら何でも金が下りるご時世じゃないよと言われてひたすら頭を下げた。今回の計算もほぼ同じぐらいの額で、通らないかもしれないと相談に行った。するととっつあんに一筆書いて貰ってるから、それ持って勘定方に行ってきな、あと置屋にこの手紙渡して来い、と紙きれを放ってよこしたんだそうである。
「なんでい、すると土方は探りに行ったつもりが女に誑かされてたってのかい、ばかな男」
「そんな簡単な話でもなかった、みたいで」
結論が出たのは七月の初めだった。それまでは山崎も土方が通ってる数を控えていた。請求が来て、勘定方に書類を回して、金が下りたのは七月ももう半ばを過ぎていた。つけを全部払って、帰ろうとした時におかみが
「この前、旦那さんが葛桜くださったんよ。うさぎやの。いつもはどら焼きなんだけど、珍しく置いてたからって。皆でおいしゅういただきましたって伝えといてくださいな」
と玄関先で声をかけた。その時は山崎も何も思わなかった。だが、手紙を届けに行く道すがら、うさぎやの幟を見てふと気が付いた。揚屋に最後に行ったのは六月末。葛桜が店に並び始めるのは?閉店間際のうさぎやに飛び込んで売り子に尋ねた。
「毎年七月一日ですよ、定休日じゃなければね。毎日はお出ししてないんです。もしご入用でしたら、予約でお作りしますけど」
何日に売ったのかと食い下がったが、帳簿を引っくり返してる時間がないと追い出されたそうだ。山崎も山崎で、時間までに手紙を渡して屯所に戻らなければならなかった。そして帰った途端に俺と鉢合わせて問いただされた、という訳だ。思えば、山崎の態度はただの動揺じゃなかったようにも感じた。
「大事な副長様の秘密を守らなくてよかったのか?半端な嘘つきやがって」
山崎は下を向いたまま何も言わない。こいつはあの人の手下だから、俺の知らないことも知ってる。あの人がどこにいるのか、いつ聞いてもだいたい知ってる。知らないことがあったのが、ショックだったのかもしれない。あるいは、俺が先に気づいたのが、気に入らなかったのかもしれない。
「それで、手紙の中身は?」
「見るわけないでしょう、恐ろしい」
見たんじゃねえのか、知ってんじゃねえのか、と言いたかったのに何故か言葉が出なかった。
「おまえはほんと使えねえ奴」
「すみません」
前にも堅気じゃない女絡みのことはあった。その時はうまく女に吐かせて数人の不逞浪士どもを仕留めたのだ。結果のために手段は選ばない。普段あまり女の影はないのに、どんな顔して、どんな言葉でたらしこんだんだろうと不思議に思いながら、暗闇の中なだれ込む機までの時間を潰したのを思い出した。踏み込んで男だけ全部斬った。そして始末は全部ほかに任せてさっさと帰って風呂に入って寝た。女は何人かいて、顔なんて覚えていない。その後しょっ引かれたんだか無罪放免になったんだかは知らなかった。その話をついぞ土方はしないままだった。組のためなら、近藤さんのためなら女の一人や二人平気で踏み台にできる男。ちょっとだけ尊敬したのに。
「ひょっとしたら土方さんが騙されてるんじゃないかって怖くなって…」
自分だけが秘密を握ってるのが怖くなったって訳か。意気地なし、最後まで守れないなら嘘なんてつくな。心の中で思い切り毒づいた。
「ほっときゃいいだろ、女に現抜かして死ぬなんざ、いい気味じゃねえか。前に裏切った女の恨みが晴らされるってもんよ。因果応報だ」
前の女どもの恨みなんて本当はどうでもよかった。不意に出てきた男に転んで、それまでの男を裏切るなんてのは相当に見下げた女だ。あるいは、男がその程度だったということだ。どっちも斬るほどの価値もない、カスのようなやつら。あの晩は眠くてしょうがなかった。あいつらの命なんてどうだって良かったから。指揮官として屯所に引っ込んだままの土方が恨めしかった。嘘でも好きだと言ったなら、あんたが斬って引導渡してやるべきなんじゃないのかい、そんなことを思ったような気がする。自分でもその女の肩を持ってんだかバカにしてんだかよく分からなくなる。
「前にもあったろ、女絡みで攘夷浪士釣り出したこと。あん時の女、その後どうなったよ」
「川に身投げして、死んだそうです」
柱が腐るんじゃないかってほど降ってるのに、喉の奥がひりひりと乾いていた。夏風邪を引いたかもしれない。また土方にどやされる。
「知ってんのかぃ、あの人」
「お伝えはしました」
「…どうしようもないばかもいたもんだな。恨んで土方殺す気概もねえのかい」
全然知らなかった。死んだことも、女が身投げしたのを土方が知っていたのも。いつもと何も変わるところがなかった。非道だ。残酷だ。斬ってやることすらしてやらなかったあの人。女、どんな気持ちで橋の欄干乗り越えたんだろう。何が見えていたんだろう。
「そんな簡単に騙される人じゃないはずなんです。今回は、きっと何か事情があるはずです」
「おめえもばかだな。あんな何もかも分かった顔してるが、中身は、、中身は、ただの田舎出の兄ちゃんだ。一度転んだら周りは見えねえだろうよ」
言ってすぐにすっと背が寒くなった。姉上。姉上のことはどうだったんだ?何言っちまったんだ、何考えてんだ、俺は。
「仕事に私情は挟まない人ですよ。だから、怖いんです」