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湯治余談

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 話は四半刻ほど前にさかのぼる。
 湯の中に長々と伸びた半兵衛の裸体は、まだいつものように白かった。この時代、風呂といえば蒸し風呂が主体で、肩までの湯に体をゆったり沈めるような機会は滅多にない。日頃の疲れに凝り固まった手足を湯の中で伸ばすのは、温泉地ならではの贅沢である。
 半兵衛はそれを存分に堪能しているようだった。
「ああ、偶にはこういうのも良いよねえ」
 湯の底で半兵衛の手足が揺れる。こうして裸になったところを見ると驚くほど細いが、やはり戦場で剣を振るう者の体だ。しなやかな筋肉の動きが見て取れる。
 それを秀吉は、まるで鱗のない蛇のようだと思った。銀の髪も白い肌も全て湯気の中に融けかけているのに、機嫌良く微笑む唇だけが赤く見えるのも蛇の細い舌を思わせた。それもぞっとするほど美しい白蛇である。
 この男は一体何者なのだろうか。秀吉は時々、そんなことを思うことがあった。
 秀吉の記憶はこう語る。「竹中半兵衛はお前の最も古くからの親友で、全幅の信頼を置く軍師だ」、と。その記憶に間違いはない。曲げようのない真実だ。
 だが、それに違和感を覚えることがある。半兵衛が時折、人とは思えぬ気配を感じさせるせいかもしれない。人が持つべき現実感に、どこか欠けているせいかもしれない。例えば今、秀吉に白蛇を幻視させたように。
 そんな時、秀吉はいつも馬鹿げたことを考えてしまう。この男はもしかすると、我の夢でなのではなかろうかと。天下という夢そのものが、人の形をして現われて我を導いているのではないのかと。
 そもそも、半兵衛に出会わなければ我は天下など目指しただろうか。
 我ながら馬鹿な考えだとは思う。しかし、その幻想はいつもに秀吉を不安にさせた。
 夢幻なのであれば、この男はふいに消えてしまうのではないだろうか。ある日突然、跡ひとつ残さず消えてしまって、誰に訊いても『はて、竹中様などという方は存じませぬが』と首を傾げられてしまうのではないだろうか。どうしてもそんな風に考えてしまうのだ。
 その不安を打ち消そうと、秀吉は遠い昔の記憶を手繰り寄せた。共に過ごした若き日の記憶は確かに己の内にある。間違いない。間違いなく半兵衛も己と同じ時を過ごしてきた人間なのだ。だから夢幻のようにいきなり消えたりはしない。湯の中に融けて消えたりはしない――古い記憶を頼りに、自分にそう言い聞かせるのである。
 妙なことを思い出したのはそのせいだった。
「半兵衛よ」
「なんだい、秀吉」
「不自然、と言ったな」
「え?」
「三成と吉継のことだ」
 今は別の浴室にいるはずの側近二人の名を出して、秀吉は幾日が前の話を半兵衛に繰り返させた。
「あやつらが喧嘩のひとつもせずに来たのは不自然だ、と言ったのを覚えているか?」
「もちろん覚えているさ」
 三成と吉継が、出会って以来初めての大喧嘩をした日のことである。半月ほど前からぎくしゃくしていたのも知っていたし、理由もある程度察してはいたが、それがまさか殴り合い掴み合いの喧嘩に至るとは思っていなかった。
 どうしたものかと案じた秀吉に、しかし半兵衛はさらりと「それぐらいが普通なんだよ」と言ったのである。
「友人同士であれば一度や二度は喧嘩をするのが当然なんだよ。なのにあの子たちと来たら、諍いのひとつもなしに大人になってしまって。これは拙いなあと思っていたら、今頃になっていきなり殴り合いを始めたのには、僕も少し驚いたけどね。でも案ずることはないよ。喧嘩のひとつもするのは自然なことだし、これ以上拗れないように出来る限りの手は打った。湯から上がる頃には、きっと仲直りも済んでいるはずだよ」
 そう言って、半兵衛は長い足で湯を蹴った。ぱしゃんと軽い水音が響く。
 童子のような振る舞いだ。赤い唇にはほのかな笑みまで浮かべている。「きっと」などという願望のような言葉を口にしながら、半兵衛はおそらくその光景をはっきりと見透かしているに違いない。
「ついでに僕等も久々の骨休めができたし、結果的には全て良いこと尽くめで終わるさ。心配ないよ」
「そうか」
 お前がそのように言うのなら、と秀吉は頷いた。半兵衛が問題ないというのなら、これ以上、あの二人の件について秀吉が気を揉む必要はない。
 しかし、秀吉が訊きたかったのはそのことではなかった。
「ところで半兵衛よ」
「なんだい?」
「我らも不自然か?」
「え?」
「我はお前と喧嘩などした覚えがない」
 そちらが本題の質問だった。
 秀吉の記憶にある限り、半兵衛は秀吉と争ったことがない。秀吉の言うことを茶化したり、冗談で誤魔化してしまうことはあっても、真っ向から逆らってきたことがないのだ。
 稀に秀吉が半兵衛と逆のことを言っても、「君が言うならそうしよう」と半兵衛の方が意見を曲げてしまう。
 そうやって何もかもするするとかわしてしまうから、ぶつかることもなければ争いになったこともない。それこそ鱗のない蛇を捕らえようとしているようなものだった。
 そう問うと、半兵衛はあっさりとその事実を認めた。
「そうだね。確かに僕等も喧嘩をしたことはないね」
 だがすぐに肩を竦めて、
「でも、それは僕の役目じゃなかったから」
 とも付け加える。
 確かにそうかもしれない。二人がかつて三人であった頃、秀吉と争うのは半兵衛ではなく、もう一人の男だった。半兵衛はいつも、二人の間に入って宥める役だ。なるほど、それでは喧嘩もし損ねる。
 しかし、それで納得する気にはなれなかった。唯一無二の存在だが不自然な友人。それまで気にしたこともなかったと言うのに、一度自覚してしまうと奇妙に落ち着かない。
「ならば今からでも済ませておくか?」
 試しにそんなことを言ってもみたが、半兵衛は笑ってそれを拒む。
「遠慮しておくよ。もうそんな歳じゃないだろう」
 当たり前だ。三十路をとうに過ぎた大人同士が、今更喧嘩では三成と吉継を笑えない。
 だが秀吉はそれでも食い下がる。どういうわけか笑って流してしまう気になれないのだ。
 夢幻のように消えてしまいそうな男、などと思ったせいかもしれない。
「不自然ではないのか?」
「嫌かい? 僕は多少不自然でも構わないよ」
「なぜだ」
「君を敵に回すのなんて御免だからね。どんな些細な争いでも」
「だが我が構う」
「だったら善処はするけれど、熟考する時間が欲しいな。なにしろ、純粋な殴り合いになら僕に勝ち目はない。君に一方的に殴られるんじゃ堪らないよ」
 成程、それはそうだろう。戦ではなく喧嘩というなら徒手空拳が流儀だ。だがそうなれば生まれ持っての膂力が物を言う。いかに半兵衛の戦運びが巧いとは言え、秀吉に圧倒されるのは目に見えていた。何か別の勝負をと考えるのは当然だ。
「ああ、でも口喧嘩なら今からでも受けて立てるかな」
「それでは我に勝ち目がないわ。お前の舌鋒に敵うものなどいるものか」
「じゃあ、何か別の手を考えないとね」
「そんなことを言って、のらりくらりと逃げるつもりか」
「忘れてもらえる方が有り難いとは思っているよ」
 悪びれもなく言って、半兵衛は湯を蹴った。どうやらその他愛ない戯れが気に入ったらしい。半兵衛は二度、三度と繰り返し湯を蹴っては軽い水音を立てている。
作品名:湯治余談 作家名:からこ