豊穣への詫び状
びくり、と体が震えたのをきっかけにして、青年の浅い眠りは覚めた。吉良イヅルは脇息から滑り落ちた自分の腕をぼうっと見つめ、次いでいまだ鈍い顔を緩慢な所作でもたげると、彼の目には百日紅(さるすべり)の赤い花が映った。
「もう秋なんだなぁ」
百日紅い――その名の通り一夏中、あふれるように咲き誇っていた百日紅ももう終わりごろで、そばに植えた木槿(むくげ)の紫も同じように褪せ、どうも儚さというよりはうらぶれた風情が庭じゅうにただよっている。吹く風をさえぎるために、イヅルは肩からずり落ちた中羽織の紐を結わえると、一息ついて起き上がった。わきに置いた発句帳はずいぶんと昔の頁(ページ)を開いており、新たに何か詠もうと擦った墨は、硯の上で固まってひび割れている。ひさびさの休みとはいえ、まさかうたた寝をするほどに疲れていたのだろうか、と嘆息をついたとたん、ここ最近の激務が思い出されて脇腹のあたりがきりきりと痛んだ。その慣れ親しんだ哀しい悲鳴に耳を傾けることはなく、しかし薄い微苦笑を浮かべながら彼は縁側から室内へと移り、ひと足ごとに走る冷たさを指の腹で感じる。彼は箪笥から取り出した足袋(たび)を履き、いつもよりずっと遅い所作で真鍮のこはぜを止めていった。こうして無為に時間を費やせることに、イヅルはささやかな休日の悦びを見いだしていたのである。
イヅルは壁掛けの時計をちらりと見やったあと、ふたたび縁側へと戻り、庭の奥の板塀(いたべい)に目をやった。壁の向こうには舗装もされていない路地があり、そこに面するよう設けられた裏木戸から、彼の待つ旧友がひょっこり現れはしないかと思われたのである。もうだいぶ昔のことになってしまったが、まだ自分たちが初々しい院生であった時分には、阿散井恋次がこの裏道を好んで使っていたものであった。あらかじめ蝶番(ちょうつがい)を外しておいたその木戸をぼんやりと眺めていると、板塀の上から見慣れた赤い髪が視界の端にちらちらとのぞくのをとらえた。ああ今日は束ねてはいないんだな、などと思いながらその姿を追っているうちに、恋次の姿は木戸の前を通り過ぎて大通りへと向かっていく。イヅルは少しの間思案するそぶりを見せたが、やがてその顔に薄い笑みを浮かべて玄関の方に歩いていった。
「おう、邪魔すんぞ」
屋根のついた木戸門をくぐり、つやつやとした緑の葉を茂らせる椿(そのどれもが紺侘助の株であった)が植えられた前庭を抜け、阿散井恋次は吉良邸の玄関へと上がった。下級といえど貴族、貴族といえど下級という吉良家らしい、趣などよりも侘びしさを感じさせるつましい構えであったが、流魂街出身の恋次にしてみればこれも充分に立派な、いかにも瀞霊廷らしい『死神の住まい』なのであった。門扉から玄関までの短い道のりでさえ、丁寧に世話された苔の上に御影石の飛び石が置かれており、そこを通るたびに彼は言いしれぬしこりを胸の奥に感じるのである。街区と街区をさえぎるもの、流魂街と瀞霊廷をさえぎるもの、そして彼と朽木家の前に傲然と立ちはだかるもの、そのどれもが扉を閉ざす仰々しい門なのだ。
「ああ、いらっしゃい。時間通り……よりちょっと早いかな? ま、どうぞ上がってよ」
言葉に反して、イヅルはすでに玄関を開いて客人を待っており、相変わらずの人の良さそうな笑みで恋次を出迎えた。恋次が駒下駄を脱いで上がり框に足を載せると、「今日は髪を結い上げてないんだね」と彼のつむじを見たイヅルが笑う。
「休日だし、たまにはな。お前の髪も少し崩れてんだな」
「あー、居眠りしてそのままだったかな。でも、君が髪を下の方で結んでるのってなんだか新鮮だな、ずいぶん伸びたみたいだね」
他愛もない会話の応酬をしながら客間へと向かい、イヅルに勧められた席に恋次は座る。イヅルは使用人の老女から盆を受け取り、載せられた湯飲みを卓の上に移してから自分も腰を落とした。恋次が湯飲み茶碗をすするのを、彼は眉間の皺をより深くさせながら見つめていたが、「なんだよ」という低い声がかかったとたん、その表情をばつの悪いようなものへと切り替えて、切れ悪く言葉を紡いだ。
「うーん、肝心の萩なんだけど、まだあんまり咲いてなくてね。わざわざ玄関まで回ってくれた君には悪いんだけど……」
「いや、もうガキじゃねぇんだから、ふつう玄関から入るって。……あー、でも萩まだか。お前んとこの萩って、そういやいつも遅いっけな」
肩をすくめて苦笑で終わったイヅルの声を引き継いで、恋次はふぅっとため息をつく。萩を見る約束だったのに困ったね、とつぶやくイヅルに流し目を送ると、彼はにかっと破顔した。
「まぁいいさ。庭、見せてくれよ」