背中
会社の人間とは顔を合わせたくない、なんてただの希望に過ぎない。明日は嫌でも合わせなければならないのだ。それも、もう決まっている。決断したことを一々掘り返す僕が悪いのか、なんて思いながら家の前に立つ。いつもより重々しく見える扉をわざわざ両手で開いた。あまり力が入らなかった。ボールの中の彼らが不安げにかたかたと揺れている。そうして隙間に体をすべり込ませ、覚束ない足取りを気にしながらソファを探した。そうしてどうしたことか、と思う。電気がついていた。なぜだろうという疑問はすぐに消える。何となく予想はついていた。いればいい、とは思っていた。僅か数秒で心臓の鼓動が走り出して、嫌な汗がじわじわと滲んでくる。もう駄目なんだな、と薄ら思う。安寧を求めれば優しい手つきで出迎えてくれる、安心できる場所だった。今はもう駄目だ。視線を交わすこともできるかどうかわからなかった。みっともなく、見下すに値するような人間しかしないような、そんな表情をしてしまいそうになる。深く息を吸った。そのまま唇を噛んだ。違和感の残る腹を撫でる。彼が何かを言っていたら僕はどうしていたのかな、といまさら思った。何もしていなかったんだろうな、とも思った。大きく、静かに、緩慢とした仕草で息を吐く。
寝室の扉を開ける。ああやっぱりとは口に出さなかった。彼は足を組んで本を読んでいる。わざわざ僕のベッドに座るのは、僕への不満でもあらわしているのかな、よくわからない。
「おかえりなさい」
彼は顔を上げなかった。ただ手にあった本を手放しただけだった。何を読んでいたのかまでは見えなかった。そんなことはどうでもよかった。さっきまでの僕よりは、どうでもよくないんだろうけど。彼は相変わらず何も言わないものだから、僕はただ一歩を踏み出した。彼の隣に腰をおろす。微かな鈍い痛みに思わず肩が揺れてしまったけど、なるべく無表情を貫き通した。もしかしたら無表情さえ作ることができていないのかもしれない。自分の顔を見る手段も何も無かったから確認もできない。いっそ笑みを浮かべていたほうが自然だったのかもしれないなんて思いながら、後ろ手に体を支えた。ベッドが揺れて静かに沈む。
「ただいま」
手探りで本を手繰り寄せて題名を横目で確認する。どこかで見たことがあるかもしれないと記憶を探った。確か5年か6年ほど前に映画になった小説だと思う。最近は映画なんて見ていない。最近でなくても、今も昔も、興味がなかった。興味がなければ見ようと思わない。元々嗜好なんて合っていなかった。
「大丈夫ですか」
ひとり言のように呟かれたそれにうまく口が動かなかった。思わず唾を飲み込んだ。何が大丈夫かと聞かれているんだろう。体のことだろうか。それなら、それこそ大丈夫かと聞きなおしたいくらいの言葉だな。