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春の目覚め ・1

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 撫でられた箇所を右手で軽く押さえ、ドイツは歩き出すプロイセンの後ろ姿を眺めやった。
 立ち尽くしたまま動けないドイツを、プロイセンが振り向き様「おい、何してんだ?」と声を掛けてくる。ドイツは慌てて兄の後を追った。




「隊長殿…! ルートヴィッヒ!」
 かつては大通りだった瓦礫の散乱する道で、ドイツは声を掛かられる。そして声の主を見付けて目を見張った。
「…大佐」
 ドイツが「大佐」と呼んだ男は、嬉し泣きのような顔をした。
「隊長殿、ご無事で良かった」
「大佐こそ…、よくご無事で…」
 プロイセンは「誰だ?」とは聞かなかった。覚えているのかもしれない。この男が昨年の夏に起きたクーデター未遂事件に関わっていた一人だということを。
「兄さん、こちらは…」
「大佐。よくこの粛正の中、生き延びられたな」
 プロイセンの発言にドイツが一瞬ぎくりと身を竦めたことをプロイセンは見逃さない。それから、いきなり吹き出してドイツの肩を叩いた。
「おいおい。何びびってんだ、お前」
「え?」
「俺はSSじゃねぇよ」
「び、びびってなんかいない」
「思いっきりびびってたじゃねぇか」

「兄さん? 隊長殿に兄上がいらっしゃったのか」
 驚いた調子で男が言葉を発する。

 その口調に何を感じとったのか、プロイセンは、
「ああ、厳密には、兄のようなもの、だな」
 と、にんまりと笑いながら言った。

「そう…なのか」
 何か考え込むようにしながら、男は頷く。
「あ…と。大佐は、これからどうされるおつもりで?」
 微妙な空気に耐えきれないというように、ドイツは半ば無理矢理な調子で男に話を振っていた。
 率直な問いに、男はわずかに躊躇う素振りを見せたが、小さく息を吐き出すと顔を上げ、ドイツの目を真っ直ぐに見詰めてきた。そして、小さく笑みを浮かべた。
「作戦に賛同してくれた私の部下達の残りが無事に国境を越えて逃げ切るまでの時間稼ぎがしたくてね。もう一度クーデターでも起こしてみようかと」
「……」
「冗談だよ。軍事裁判の招集が掛かっているんだ。逃げるのも飽きたんで、出頭しに来た」
「馬鹿な…。軍事裁判なんて開くとは思えない。無謀な真似は止せ」
 男は嬉しそうに、眩しげに目を細める。
「本当に、君はお人好し過ぎるな」
「俺は、もう、あなた方のような人間を見殺しにはしたくない。あのクーデターでさえ、この国を…」
 男は笑みを深くし、ドイツの言葉を遮るようにして言葉を繋いだ。
「ありがとう。僅かな期間とはいえ、君の友人でいられたことを光栄に思うよ、ルートヴィッヒ」
「―――、」
 どれが本気でどれが冗談なのか、ドイツには判断が付かない。ただ、部下が国境越えをするというのは、本当の事だと思えた。時期的に、あり得ると。
「大佐、どうか…」
「ドイチェスライヒ。我らが帝国よ」
 ドイツの言葉を再度遮り、男が静かな声で名を呼ぶ。ドイツの表情が驚きに強ばる。プロイセンは飄々とした態度を崩さずに男を眺めやった。
「何を…、なんで…」
 あからさまに狼狽えてしまうドイツを見詰め、男は幼い子供を見詰めるような眼差しを向けてくる。
「私の祖父はプロイセン生まれの生粋のプロイセン軍人でね。家に幾つもの写真が残っていた。君たちとそっくりな若者を写真の中に見たことがある…」
 その言葉に、僅かにプロイセンが目を眇めた。写真が残っていたことに驚いたのか、それとも、懐かしい光景に思いを馳せたのか。
 男は静かな笑みを唇の端に乗せる。
「私も一時期は総統のお気に入りだったこともあって、側近たちと行動を共にしたことも一度や二度では無い。彼らの君たちに対する態度は、一兵士へ向けるものではないことくらい私にも容易に想像は付いたよ」
「そんな程度のことで…」
「祖父から、聞いていたからね。おとぎ話だと思って聞いていたが、こんな年になってそのおとぎ話を覚えていて良かったと思う日が来るとは思わなかったな」
 してやったりという笑みを浮かべた。
 男は、むしろ、ドイツの狼狽する態度で己の推論に確信を持てたという感じであった。
 ドイツもプロイセンもそのことに気付いた。プロイセンは「まだまだ甘い」とでも言いたそうな顔でドイツを見遣ってくる。ドイツは右手で顔を覆って己の失態に呻いた。
「君に恥を掻かせるつもりもなかったんだが、何か申し訳ないことをしてしまったかな」
「いや」
 そう答えるのはにやにやと笑うだけのプロイセンだった。ドイツは未だ狼狽している。
 男は眩しげに目を細め、穏やかに笑う。その眼差しはプロイセンへと向けられた。
「あなたの名をお聞きしても?」
「プロイセン」
 当たり前のように、プロイセンは国名を名乗る。隣でドイツが唖然とした様子で兄を眺めやった。
 男は、感謝と感動の思いをその目に浮かべていた。
「やはり…。最後にここであなた方に会えたのも、祖父の導きか奇跡か。もう、軍人としての悔いはないな」
 そう言って、にこやかに笑ってみせた。
 ドイツが子供のような泣きそうな表情で男の腕を掴む。
「大佐! 何を言って…!」
「あんたが本部に出頭したところで、部下が助かる確率が上がるとでも?」
「さて、どうだろうか…」
 それでも、と男は呟く。
「軍人としてのけじめ、かな。いや、ただの欺瞞なのか、自分でも分からんな。もう…」
 乾いた笑いが男から零れ落ちた。
「……」
 言葉を見付けることが出来ずに、ドイツは苦鳴を漏らすだけ。
 そんなドイツを見詰め、男は言葉を繋ぐ。
「私は、あの作戦に参加したことを悔いたことは一度もないよ。大した決定権も持たない私でさえ、ああする以外にこの歪んでしまった戦いを終わらせる事は出来ないことは理解していた。裏切りとも思ってはいない」
 男は、一度言葉を切ると、プロイセンを見詰める。それから、視線を空へと向けた。
「プロイセン軍人は反逆しない。…その意味を考えた事もあるがね」
「……」
「それでも、私には恥じることは何もない」
 そう言い切ってみせるが、そこには悔しげな悲しい笑みがあった。
「成功させられなかったことは、残念で仕方がないが」
「……」
「……大佐。お願いだ、あなたは――、」
「部下たちが今夜、国境越えをする。せめて、それまでの間、本部の目を逸らせたい。上官としてやれることは何でもやってみたい」
 すまないね、と男は呟いた。
「国境越えが、成功すると思うのか?」
「難しいだろうね、SSが相手では。だからこそ、無駄な足掻きでもやってしまいたくなる」
 なぜ、こうも兄と大佐は冷静に会話をしているのだろうか。ドイツは、苛立ちと悔しさを抑え込むように手の平を握りしめる。
「どうやって時間を稼ぐというのだ!?」
「やはり、軍事裁判をちゃんと開いてもらうように訴えてみるとか、かな」
「そんなもの聞き入れる訳がない!」
「だろうねぇ。それでも、私はやれる限りのことをやるしかないんだよ。本部へ向かうことを許してくれ、ルートヴィッヒ」
 ここで、上官でもなく同僚でもなく、友人として人の名で呼ぶのは卑怯だろう。そう叫びたかった。
 最後になって、友人というスタイルで通そうとする男に掛ける言葉が、ドイツにはどうしても見付けられなかった。
作品名:春の目覚め ・1 作家名:氷崎冬花