春の目覚め ・1
男はそんなドイツを見つめ、そっと笑う。どうして、この状況下でそのように笑えるのか。
ドイツは苦渋に満ちた表情を浮かべ、視線を俯けた。必死に言葉を探すように、沈黙を作る。数瞬の後、男の肩に手を置くと、
「俺も今の役目が終われば、本部へ戻る。必ず、見つけ出して合流するからな。その時は、余計なお世話と言われようとも擁護させてもらうぞ」
そう言うのが、やっとだった。
男は、どういうつもりか、満足気に笑う。本当によく笑う男だとドイツは思った。
不意に真顔に戻り、男は姿勢を正す。ドイツとプロイセンに真っ直ぐに視線を向け、右手を額に添える本来の敬礼の仕草をした。後半に入って導入された腕を真っ直ぐに伸ばし上司の名を叫ぶ敬礼ではなく、プロイセン時代から行われてきた本来の敬礼。
反射的にドイツもプロイセンも同じ敬礼のポーズを取った。
「君の友として過ごした日々に感謝する」
男は誇らしげに笑う。そして、声高らかに叫んだ。
「我がドイツ帝国に栄光あれ!」
ベルリンの状況、敵部隊の進行具合などの確認を終え、ドレスデンへ向かうプロイセンを見送り、ドイツはベルリン市内に置かれた作戦本部への帰路に付いた。時刻はすでに夜中に近い。
別れ際までプロイセンはドイツのことを気にしていた。最後まで上司に気を付けろと言い続けた。そのプロイセンに真顔で頷いて見せたが、何をどう気を付けたものかよく分からないというのが実情だ。上司相手に気を付けろというのも、かなり難題と思えた。
それでも、出来る限りは、上司の前でも自分の執務室でさえも気を引き締めて油断なく過ごすことに越したことはない、と思うことにした。
作戦本部として使用している館のドアを開け、一歩足を踏み入れた瞬間、ドイツは真新しいと思える強い血の匂いに眉を顰める。
ここで、何が起きた?
現在、上司はベルリン中心部にある総統官邸の地階に引き籠もっている。猜疑心に苛まれた上司は、もはやドイツすらも近くに寄りつかせようとはしなかった。今ではドイツすらも信用できないと思い始めているらしかった。
上司の命令も遠い今、何かゴタゴタが起きるとも思えなかったのだが。
一階の最奥がドイツの現在の執務室になっていた。そこへ向かいながらも油断なく視線を走らせる。
この血臭はどこからしている…?
見つけようとすれば、それはすぐに見付かった。
二階へと続く階段のある広間。そこの片隅に倒れ込む男が一人。米神を撃ち抜かれた男の姿。
ざわり、と背筋が泡立つのを感じた。
どうして、ここに…?
「……大…佐」
迷わず、ドイツは倒れる男の元へ駆け寄った。
「我が国。お離れください、汚れます」
男の傍らに膝を付き、その体に触れようとしたとき、背後から声が掛かる。振り返れば、常に上司の側にいる親衛隊の一人だと気付く。
「裏切り者の粛正を終えたところです。こちらで簡易の軍事裁判を行い、その結果、大佐はここでの自決を選ばれました」
感情の籠もらない、どこまでも事務的な口調。
「誰の命で簡易式にした? お前の独断か?」
「いえ、総統閣下より下った命です」
「総統の…?」
「総統閣下は、現在こちらへおられます。あなたの帰りをお待ちです」
「……」
ドイツはそれ以上は何も言わず、そっと倒れた男の襟元に手をやる。そして、そこに付けられた鉄十字を外した。それを胸ポケットに仕舞うが、親衛隊の男は何も言わない。
「この男をどうする?」
「裏庭で焼却せよとのご命令が下っております」
「そうか…」
それだけ言うと、ドイツは立ち上がり自分の執務室へと足を向ける。聞くまでもなく、上司がいるのはこの部屋だろう。
執務室のドアをノックをし、ゆっくりと開ける。
入り口から正面の奥に置かれたデスクとソファ。ドイツが執務を行う時に使うそこに、上司の姿を見る。
「軍事裁判というのは、もう少し公平であるべきではないのですか」
怒りを抑えながら、ドイツは挨拶もすっ飛ばしてそう口にした。
ドイツの物言いに、奥のソファに腰掛けていた上司が鬱陶しそうに顔を顰めてみせる。側に控える親衛隊が僅かに構えの仕草を取った。
「お前は、我が国だと言いながら常に私の反対ばかりしてくれるな」
「……」
「国が偉いのか、上司たる私が偉いのか。どちらだと思う?」
「国民あっての国、かと思われますが」
「私の国は、私には何の恩恵も与えんと見える。嘆かわしいことだ…」
上司は立ち上がり、壁際へと歩く。そのまま面白くなさげに壁に掛けられた軍旗を眺めた。
「失望させてくれますな、我が国」
そう背後で声が聞こえた。咄嗟に振り返ったが、遅かったらしい。
「お許しを、我が国」
パンッと乾いた音を耳が拾った。
それから、間隔を開けずして、もう一度同じ音が響いた。
額の一部がひどく熱かった。それから、胸元。少し左寄りの胸が、熱い。痛みよりも熱さが先に来た。
どうやら、撃たれたらしい。
足から力が抜けるのが分かる。体が崩れるようにして倒れ込む。
――ああ、兄さんに叱られてしまうな。油断するなと、あれほど言われていたのに…。
薄れ行く意識の中で、そんなことを思った。
一度途切れた意識が繋がる。体を動かす神経はまだ繋がっていない。
死なないというのは、こういう事か。
動かない体を感じながら、ドイツは目に映る情景だけを見詰めた。耳は音を拾い続ける。
死しても死なない。死しても生き返る。国という概念が滅ばない限り、決して人の姿を取ったこの肉体が消滅することは無い。
心臓が鼓動を止めるというレベルの死は、初めて経験したな。
どこか人事の様に考える思考。
今はまだ、薄ぼんやりした意識があるだけで、体は微動だにしない。当然、声も出せない。
人の常識で言えば、完全に死者の体だろう。
倒れるドイツを見て、最近入ったばかりだと思われる若い親衛隊が悲鳴を上げていた。「隊長! 隊長!」と倒れるドイツに縋り付いている。
古株の親衛隊が若い男をドイツから引き剥がす。
「手筈通りに、館までお連れしろ」
縋り付いていた若い男を含め、数名の親衛隊に命令が下される。
「これ以上、何をされるおつもりですか!」
「国は、この程度では死なん。お前達が考えている以上に頑丈に出来ているんだ」
人事と思って勝手に言ってくれる。ドイツは声にならない声でぼやいてみた。
傷つけば痛いし、死ねば苦しい。そこは人と同じレベルだというのに。
傷が癒え、体が復活するまで、もうしばらく時間が掛かりそうだった。完全に「死」の状態になれば、そうそう元には戻らないらしい。
死にそうな状態は何度も味わったものだが、あれもかなりきついのだが、しかし、死しても死なない、というのは、思ってた以上にしんどいな。
そんな、弱音すら出そうになるが、思うだけで声になることは無いのだから、別に構わないだろう。そんなどこか投げやりな気分にすらなっていた。
彼らは何をするつもりか、ドイツの体を黒い布で包み始める。そして、三人掛かりで抱えられた。
運ばれていることが分かる。一体、どこへ連れて行く気なのか。