ひわひわのお話。2
にっこりと。
それは何も知らずにその笑顔だけを見たら
大抵の男は一目惚れしてしまうんじゃないかと思うくらい、
それくらい、放たれた言葉とこの場に全く似つかわしくない笑みだった。
俺も、オーナーも、amuも、
誰一人、何ひとつ、言葉にすることができなかった。
ここだけが時間の流れから取り残されてしまったかのうように、
沈黙だけがこの場所を支配していた。
「ねぇ、りせは。あなた、どちらが良いかしら?」
嬉しそうに、俺の目を見て微笑んだ。
楽しんでる。
この人は、俺の反応を待ってる。
どちらも選べないのをわかっていて、
どちらを捨てるのか答えを待っている。
まるでゲームのように、本気の遊びをしている。
『・・・そんなのっ、選べるわけっ―――っ!!』
「選んで。決めて。
どちらも、なんてそんな都合の良いこと有り得ないわ。」
『でもっ!!』
「私が寛大に対処してあげているうちに決めれば良かったのよ。
それを台無しにしたのは誰だと思ってるの?」
『そ、れは………』
「これでも譲歩しているのよ?
あそこまで言われて、それでも条件次第でここに手を出さないんだから。
本来なら無条件でこの店を潰してやりたいところだわ。」
『っ………』
横暴だ、と思った。
結婚するならお金も出す。お店も潰さない。
断るなら資金援助はない。お店は潰される。
二択で考えたらどう考えたって前者を選ぶしかない。
でもそれは、あくまで合理的に考えた場合だ。
俺はここにいたい。
結婚だってしたくない。
でも家族は幸せにしたい。
このお店を守りたい。
一つ叶えば必ずもう片方は捨てられる。
自分の保身を考えたら、この店は潰される。
この店を守るためには、自分の身を差し出すしかない。
まるで、抜け出せない無限ループだ。
「………あんた、それ脅迫になるんじゃないの?」
「何とでも言えば良いわ。
お金さえあればね、あなたたちの戯言なんて捩じ伏せられるの。
警察だって、金と権力には勝てないのよ。」
「お前っ!!」
「amu、ダメだ!手は出すな!!」
立ち上がって掴みかかろうとするamuをオーナーが止めた。
確かにそうだ。
彼女の言っていることは間違っていない。
全ての警察や国家公務員が公平であるとは限らないのだ。
そうでなければ、不祥事が勃発する今の世の中なんて有り得ない。
隠れて悪いことをしている人なんて、山ほどいる。
そして俺達一般市民の声が、
金と権力の前では無に等しいものになってしまうことも、知ってる。
「りせは、あなたは、どちらを選ぶの?」
『俺、は………』
答えなんて出ない。出るわけがない。
大事なものしかないのに、どれかを選べだなんて。
家族だって、この店だって、捨てられるはずがないのに。
「りせは、わかるでしょう?
結婚すれば、お金も手に入るし、この店も安泰だわ。
断れば、お金も手に入らないし、この店はなくなる。
簡単なことでしょう?小学生でもわかるわ。」
『そんなのっ………!!』
そんなの、わかってる。
頭の中では、結論なんて出てる。
ただ、心が言うことを聞かないだけだ。
最後の一歩が踏み出せない。
踏み越えたら、今までの生活を、全て失う。
今まであった俺の居場所が、全て消える。
そう思うと、答えが出せない。
「あんた、根性悪いね。
自分の好きなやつに、自分を犠牲にして家族を守るか、
自分を守って家族を捨てるか、選ばせるわけ?」
「家族だけじゃないわよ。"この店も"よ。」
「………」
「りせはにとっては、家族も、この店も大事なんでしょう?
だったら私を選んで、そして私を侮辱したこの店を去ってもらわないと。
………ねぇ、りせは?」
『っ………!!』
「………………最悪」
「好きに言ってちょうだい。」
足りない頭で、必死に考えた。
お金は別にどうでもいい。
あれば、確かに生活は潤うかもしれない。
家族も喜ぶかもしれない。
―――…でも、この店は?
俺がここに残りたいと言ったら、この店は潰される。
俺がここからいなくなれば、この店は残る。
少なくとも、従業員のみんなに迷惑はかからない。
家族は、今のまま貧しい生活を送らせてしまうかもしれない。
でも、俺の言葉ひとつで、この店のみんなは人生を変えられてしまう。
オーナーも、amuも、あんずさんも。
タヌや新人たちだって、この店が好きに決まってる。
俺だって、この店が好きだ。
でも………だからこそ。
この店はなくせない。
俺1人のわがままで、潰させるわけにはいかない。
俺さえこの条件を飲めば、何の問題もない。
みんなだって、そう思うはずだ。
俺1人がいなくなれば、全て丸くおさまる。
今日も、これからも、この店は今まで通り続く。
そう望んでるに決まってる。
そう思ったら、心が決まった。
「さぁ、りせは、どちらが良いかしら?
もちろん、この店を捨てて私と結婚してくれるでしょう?」
女性は、俺に向かってにっこり微笑んだ。
俺の心など、お見通しだったのだろう。
まるで勝ち誇ったような表情だった。
さっきまでずっと目線を合わせられなかったけど、
俺は覚悟を決めて女性の視線を受け取った。
そして、そのままオーナーとamuの方を向いた。
この店を、ここの人たちを守るためなら、怖くない。
不安しかないけれど、みんなが元気なら、きっと頑張れる。
決意を込めて、かたく手を握った。