大宮サンセット(仮)
言いかけて、止める。
一瞬の間、なにか重くどろりとしたものを飲み込んだような苦しい沈黙のなかに、二人は立った。アキラの眼に沈む青が迷いを含んでぐらりと揺れるのが見えた。ああ、また、わかってしまったのか、その色はケイスケが、いまも数日おきに訪れる悪夢に飛び起きるとき、傍らの幼馴染が浮かべるそれとまったく同じだった。
さっきまで渦巻いていた不安や焦燥の塊が、いきなり声をかけられた驚きのせいで散っていたことに気付く。しかしかわりに、欠けていたピースが埋められたような充足感と、今すぐ崩れ落ちたくなるような安堵感に襲われている。ケイスケはこのままアキラにすがりついてしまおうかと思った。彼はそれを許してくれるだろう。感情の激しい奔流というものを目の当たりにすることが未だ不慣れな彼なりに、戸惑いつつも、いま何をすべきかわからない自分に向き合ってくれるだろう。彼は俺を案じてくれている。過ぎ去ったあの日、理性の鎖を破壊しつくして、彼の隅々までを破壊しようと荒れ狂う自我の波を、受け止め抑え込んだ、その真摯さをもって。
「……」
動き出したのはこちらから。ゆっくりと近づいて、アキラの真正面に立つ。彼はまだ、揺らいだ眼でこちらを見ている。不安定に波打つ青、しかしその眼は決してそらされることはない。すうと伸ばした手にも驚かない。あまりにおもむろな動きだったので気付かなかったのかと思ったが、そうではないことを知っていた。不思議に落ち着いた気分のまま、一定のスピードを保ったまま移動する手がアキラの頬に近づいていくのを眺めた。
頬をかすめる、わずかその前から彼の温かさが伝わってくる気がした。掌が吸い付くよりさきに中指の先が一点触れ、そのとき、彼の口元が、ぴくりと一瞬動く。
このまま指先から関節、掌まで順々に触れさせていって、そこから流れ込むのは、なんであるか。彼のことを案じる気持ち、いつもと違う帰り道への違和感、この先の自分たちのこと、それから、今さっき澱んでいたもの。
それらの流れが堤防なしに彼へ注がれるさまを思った。
次の瞬間には手を離していた。ケイスケは恐ろしかった。いま浮かべた感情のなかにはなにが含まれていたか。目の前の彼を案じ慈しみ守ろうとする心はそのうちどれくらいを占めていただろうか。今もこの胸のうちにくすぶり続けているかもしれない、煮えたぎった情念が自分を飲み込み彼を破壊しようとしなかったか。
いま浮かべた映像に、俺はいくらかでも爽快感を覚えなかっただろうか?
逃げるように後ろへ退いた。早く離れなければならない、そう思っての行動だったが、アキラの眉がわずかにひそめられるのが見えた。迷いを悟られてしまったことが辛くて、目をそらしたくなったが、とっさに思いとどまった。これ以上この幼馴染に重苦しい空気を味あわせるのは、申し訳ないとも感じていた。
顔の筋肉を意識して動かし、にっこりと笑ってみせる。
「…今日は、早かったんだね、アキラ」
突然の問いを浴びせられたアキラは表情をそのままに黙ってケイスケを見たが、一瞬のちに低いトーンで「ああ」と短く答えた。
視線をそらしたのは彼の側だった。
「大丈夫だった?また、台車ひっくりかえして工場長にどやされなかった?」
「…昨日のことを蒸し返すな」
「あはは」
アキラが答えを返したことでケイスケは心中がひどく平らになった気がした。大丈夫、いま自分は、普通の状態でアキラと話せている。表情も口調も、なんら不自然なところがない。このまま歩き出して、いつものように並んで帰って、いつものようにあまり盛り上がらない会話をし、いつものように部屋で夕飯を食べ眠りにつくのだ。これですべて元通り、今日の日を穏やかに終えることができる。そしてこれからもずっと、自分は自分を見失わずに生きていけるだろう。彼を傷つけることもなく、彼に不安を抱かせることもなく。自分は強くなったのだから。
彼の顔を見ずに向きを変える。またさらに黒みを濃くした空が、静かな光を目に染み込ませた。そのまま足を踏み出す。
「びっくりしたよ。まさか、すぐ後ろにアキラが来てたなんて思わなかったから」
努めて高く保った声を背後に向ける。いま彼はどんな顔をしているだろうか。寄せられた眉はもう元に戻り、またあの感情表現に欠けた、見る人によっては冷たい印象を受ける目が浮かべられているさまがたやすく想像できた。そしてその心の中が実は、外見からは想像もつかないほどに、暗く波打っていることも。
「もしかして、俺がいないのがさびしくて飛んできちゃった、とか」
それを知っていてなお、ケイスケは明るいふるまいを続けた。この言葉を発した次の瞬間には拳か蹴りのどちらかが飛んでくることだろう。実によくあることだ。自分から他者に向かっていくことをあまりしないアキラに、わざとからかうような台詞を投げて反応を見ることは、彼と共に暮らすようになってからケイスケの楽しみになっていた。
「…なんて、…」
来ると思ったいつものタイミングで衝撃が来ないので、言葉を紡ぐリズムが乱れ、思わず歩みが止まった。振り向くとそこにアキラはいない。何も言わなくても一緒に歩きだしてくれていると思った幼馴染は、視点を動かすとすぐに見つかったが、さっきの位置から一歩も動くことなくまっすぐに立っているのだった。
もういくらか薄暗くなった道のまんなか、佇む彼の顔は見えない。なにか声を出そうとして口を開いたが、しかしなぜかどんな言葉をかけてもいけないような気がして、なすすべもなくケイスケは歩みを戻してアキラに近づいていった。
さっきのように真っ向から顔を見ることに耐えられないケイスケは下を向くほかなかった。低い陽に照らされて、線のような黒い影が幼馴染の足元から後ろに長く延びているのが見える。彼は怒っているのだ、と思った。
「……」
重い沈黙を保ったまま立ち尽くす。つくづく自分の不器用さが嫌だった。動揺する心を隠すことができずに心配をかけて、うまく状況をごまかすこともかなわず、結果的には彼の気持ちをないがしろにするような形になって。ケイスケはアキラの言葉を待った。もう何を言っても、取り繕うことが今はできなかった。
「…、」
ばっ、と顔を上げる気配がしたので、反射的に、こちらも視線を上向かせていた。一瞬ののちに彼の瞳を捉える。いや、とらわれる。睨む顔が強く向けられていた。眉間の皺はますます濃くなって、口は噛み締めるように引き結ばれている。
鋭い光を持ったその眼にはしかし、依然としてゆらぎが漂っているのだった。
思わず名を呼ぼうとした、その瞬間に、なにか声を発しようとして唇が微かに開かれるのを見た。
「…ケイスケ」
怒りの言葉が出てくるものと思っていたから、思いがけず呼びかけられて面食らった。声音が、いくぶん穏やかなことにも気づく。彼が何に戸惑い、悩み、考えているのか、見当がつかなくなってケイスケは落ち着かない気分になった。
端的な表情のなかに読み取れるものが、予想とはいくらか違うような気がして、思わずまじまじと見てしまう。
「おまえ、俺の声、聞こえてなかったんだろ」
「…うん」
「そういうことごまかすの、やめろよ」
作品名:大宮サンセット(仮) 作家名:すみびすみ