めかくしセカイ
「常連様の頼みとあらば仕方ないですね。了解しました」
冗談交じりに言えば、半助が楽しげに笑った。なんとなく嬉しい気持になりながら、さり気なく半助を壁側にして歩く。じゃないといつ足をもたれさせて道路の真ん中に行くか解ったものではない。
半助の家は喫茶店からそう遠くもない場所にあった。歩いて十分といったところだろうか。つまり駅前までは二十分ほどになる。見るからに少し古めのアパートだった。部屋は二階だというので、部屋の前まで共に行くことにした。往々にしてこの手のアパートの階段は急であることが多い。ここも例にもれず中々の傾斜を誇っており、これを一人で登らせるのは酔っ払いには少々危険だと判断したのである。
「ここだよ」
そう言うと、半助は階段上がってすぐの扉の前で足をとめた。半助の言うとおり、その扉には『土井』というネームプレートが掛っている。どうにか無事に送り届けることができたようだ。
「今日は本当にすまなかった。愚痴につき合わせたうえに、送らせてしまうなんて、年上として失格だよなあ」
どうやら足こそまだ僅かにふらついているものの、頭のほうは冴えてきたようだ。申し訳なさそうに土井が謝る。利吉は首をゆっくり左右に振ると、つとめて明るい笑顔を浮かべた。
「気にしないでください。今日はご馳走していただいたわけですし、それで充分つり合いは取れていますから」
「また良ければ一緒に飲もうか。今度は愚痴無しでね」
「ぜひお願いします」
「それじゃあ、今日は有難う。また明日か明後日、喫茶店に行かせてもらうよ」
「はい、お待ちしています。おやすみなさい」
「うん、おやすみ。君も気をつけて帰るんだぞ」
別れのあいさつに手をぴらぴらと振り、半助がくるりと背中を向けた。
その瞬間、またもや黒い忍び装束を着た姿がだぶって見える。
「………!」
驚きに息をのんだ利吉に気付いた様子はなく、半助はそのまま扉の中へと姿を消した。
利吉は軽く頭を振ると、ことさらに大きく溜息をついた。やはり自分も酔っているのだろう。偶然にも自分が見間違えた姿と一致したことに驚きすぎて、幻を見たに違いない。
「……こういうときは、早く帰って寝るのに限るな」
自分を説得するように小さく呟いてから、踵を返す。月明かりが照らすなか、利吉はずきずきと痛みだした頭に眉を顰めつつ、急かされるように家路を急いだ。
[苦悩]
こんこん、と扉を叩く音が聞こえる。
半助は視線を扉へ向けると、持っていた筆を硯に置き、立ち上がった。がらりと扉を開ける。半助が思っていた通り、立っていたのは利吉だった。
「お帰り、利吉くん。任務お疲れ様」
「はい、ただいま帰りました」
労わりを込めて言えば、大層嬉しそうに利吉が笑う。身なりを見る限り、着替えと湯は済ましてきたようで、任務帰りという割には小奇麗な格好をしていた。
「今回は割と短かったね。行く時はもう少し長くなる予定だって言っていなかったっけ?」
「ええ、その予定だったんですが、相手の忍びが予想以上に早く動きだしまして。私としては持久戦に持っていかれる方が厭だったので、正直助かりました」
「なるほどね。まぁ立ち話もなんだから、中にお入りよ。幾ら秋だからといって、夜は冷えるものだからね」
手招きをしてから、半助は室内へとさっさと入っていく。寝巻で秋の夜風は少々寒いのだ。
利吉もそれを察したようで、少しあわてた様子で半助の後をついてきた。
「そういえば、土井先生。なんで今日はご自宅にいらっしゃったんですか? てっきり学園にいらっしゃると思いましたよ」
居間に腰を落ち着けてから、利吉が問いかける。半助はげんなりした顔で肩を竦めた。
「なんでって、単純な話さ。溝さらいをしに帰ってきたんだよ。昼間、学園長に頼まれた用を済ますために町へ立ち寄ったら、運悪く大家さんにつかまっちゃってね……」
「それは……ご苦労様です……」
「まぁ、たまには地域貢献しておかないと、追い出されてしまうかもしれないからね。しょうがない。……ところで利吉くん」
「はい?」
「次の任務もすぐなのかい?」
半助の問いかけに、利吉は顔を申し訳なさそうに曇らせた。
「はい……どうしても、と言われてしまって。本当なら3日程度は休みをとりたかったんですが」
心から落胆した様子で、利吉が言う。本当にひっきりなしに仕事が舞い込んでくる男だ。売れっ子というのも大変なものだと、半ば関心すら覚えながら口を開く。
「その様子じゃ、今度こそ本当に長そうだね」
「ええ、随分と訳ありのようです。だからこそ、今日はどうしてもお会いしたく思い、こんな夜半に押し掛けてしまいました……申し訳ありません」
「いや、気にしなくて良いよ。私も起きていたのだしね。それにね、利吉くん。君はよくよく忘れがちみたいだから言っておくが、私だって君に会いたいという気持ちは同じなのだよ?」
自分自身でも珍しいと思うほど率直な言葉に、僅かな照れくささを感じながら、ぽんと横に座る利吉の頭に手を乗せる。利吉は驚きに眼を丸くし、半助と同じように照れた顔で笑いを浮かべた。
「やはり会いに来て正解でした。正直に言うと、今度の任務は少々不安だったんですが、絶対に帰ってこられる気がします」
「君も随分と単純だねえ。まあ私が頭を撫でたくらいで生還してくれるなら、幾らでもするけどさ」
「頭を撫でていただくのも嬉しくはありますが……」
悪戯をする子供のような顔で利吉が笑みを浮かべると、腕を伸ばし、床についていた半助の手の上に自分のそれを重ねた。徐々に互いの距離が狭まっていく。
――その時だった。突然、視界がぐらりと歪み、次いで利吉の声が遠のき、代わりに遠くから妙な音が聞こえ始めてきた。さらには自分の体が上方へと引っ張られていくような感覚を覚える。こんな事態が起こっているというのに、歪みきった視界の先では、利吉と半助(・・)が何事もないように存在しているようである。これはなんなんだ、と思い、そこでようやく半助は理解した。
ああ、これはいつもの夢なんだ、と。
やけに重たく感じる瞼を押し上げると、目に映ったのは古びた長屋の天井ではなく、自宅アパートの世辞にもきれいとは言えない壁だった。
「…………?」
直ぐには状況を理解できず、そのままの体勢で数度ゆっくり瞬いて、今この瞬間が夢ではなく現実であることを認識していく。だいぶ頭から夢の残滓が消えたころ合いを見計らって、枕にしていた腕から顔を上げた。持ち帰ったテストの採点をしていた事までは覚えているが、どうやら途中で寝てしまったようだ。いまさらながら腕がしびれてくる。
「…………また、か」
げんなりとした様子で半助が呟く。また、というのはもちろん採点途中に寝てしまうことではない。夢のことだ。