めかくしセカイ
前日と変わらず、閑古鳥が鳴いている店の中で、利吉は今日もグラスを磨いていた。
時計をちらりと見れば、短針は十一の文字盤へと向いている。普段ならばそろそろ半助がやってくる頃合いだ。昨日とは違い、奇妙な緊張感を胸に、半助を待ちわびる。
不意に、鐘の音が店内に響いた。勢いよく振り向きそうになるのを、意識して抑え、勤めて平静にそちらへ視線をやる。そこにいたのは、土井半助その人だった。日曜の朝だと言うのに疲れを滲ませている彼は、利吉と目があうと、居た堪れなそうな笑みを浮かべた。心臓はひとつ大きく跳ね、それからゆっくりと鼓動を速めていく。
「やあ、利吉くん」
「いらっしゃいませ、土井さん」
いつも通りの挨拶をされ、利吉も顔面に笑みを貼り付けながらいつも通りの言葉を返す。半助は少し迷ったそぶりを見せた後で、普段通りカウンターへと腰を下ろした。
「今日は何にしましょうか」
「そうだなあ……たまには紅茶をいただこうかな。ダージリンをお願いするよ」
「了解しました。店長、ダージリンお願いします」
店の奥にいる店長へと声をかける。既に聞こえていたようで、利吉がそちらを向いた時には、茶葉の入っている棚のほうへと足を向けていた。
それから利吉は冷水を用意して、半助へと差し出す。礼とともに半助が受け取り、一口飲んだ。ここまではなんら変わらぬ、決まったやり取りである。だというのに、利吉は手が自分のものではないかのように固まって感じる。頬も強張っているだろう。はたしてちゃんと笑えているのだろうか。心臓はいまだに早鐘をうったままだ。赤面していない事が奇跡のようであるとも思う。
「最近、お忙しいんですか? あまり来られないので、心配していたんですよ。今日もお疲れのようですし……」
普通に、普通に、いつもどおりに。呪文のように内心で繰り返しながら、さらりと気になっていた事を尋ねる。半助は困ったような顔で笑った。
「あー、うん、まあね。ほら、秋休みが近いだろう? この時期になると成績をつけなきゃいけなくて忙しいんだよ」
利吉は反射的に、これは嘘だろうと感じた。一片の真実も含んでいないわけではないだろうが、それが全てではあるまいと思う。所詮は直感なので、確たる証拠があるわけではないのだが。
内心でそんなことを考えながらも、表面上はそのまま会話を続けていく。
「秋休み、ですか?」
首を傾げて尋ねる。実際、利吉には聞きなれない言葉だった。夏休みと冬休みと春休みはあったが、秋休みは存在しなかったように思う。
「ああ、君のころにはなかっただろうね。もちろん私が小学生の時もなかったんだけど。最近の子は、夏休みがちょっと減る代わりに、秋に一週間ほど休みがあるんだよ。で、それに合わせて通知表を渡すんだ」
「普通、通知表と言ったら七月と一二月と三月にもらうイメージなんですが……」
「それが今じゃ十月と三月なんだよ。私も初めは慣れなかったけど、今は中学生もこういう学期編成なんだぞ」
「そういえば二学期制がどうのって前にテレビでやってましたけど、それだったんですね」
「そういうこと」
ぽんぽんとテンポよく会話が続く。その後も様々な話題へと転じたが、やはり半助と話す事は純粋な楽しさを覚えた。その反面で、些細な仕草や言動に可愛いと感じている自分がいるのは、もはや否定しがたい事実であった。相手は男で年上で、髪も傷んでいて色々と大雑把な性格で、女性的な可愛らしさなど全くないというのに、だ。
ここまできたら、もはや認めるしかない。自分は、半助が好きなのだ。利吉は泣きたいような、笑いたいような、そんな半端な気分だった。好きだと自覚したはいいが、叶うべくもない。半ば自動的に失恋したようなものである。馬鹿馬鹿しいが、どうにも切なさを感じてしまうのは仕方ないだろう。
「利吉くん?」
急に妙な顔で黙り込んだ利吉を心配したのか、半助が怪訝そうに名を呼んでくる。今は落ち込んでいる場合では得なかった。何せ目の前に相手がいるのだ。自分の迂闊さを呪いながら、慌てて利吉は表情を取り繕う。
「あ、すみません。ちょっとほかの事を考えてしまっていました」
「いや、なんでもないならいいんだ。そういえば、前に飲みに誘った時もそんな感じにぼーっとしてたけど、癖なのかい?」
「そういうわけではないんですが……」
半助にあまり怪しまれていないことにほっとした矢先に、ふと利吉の脳裏に飲みに行った時の記憶がよぎった。確か、あの夢の話をした覚えがある。この話の流れなら、自然に夢の話が聞けるのではないだろうか。
利吉は意を決し、ひとつ間をおいてから、あくまでもさり気なく言葉を切り出した。
「この前といえば、土井さんに聞きたいことがあるんですが」
「ん、なんだい? 年齢ならもう教えないぞ」
冗談交じりに言葉に、つい軽く吹き出してしまう。まだ一ヶ月と少ししか経っていないというのに、半助と初めてまともに話したあの日が随分と昔のことのように感じた。
「違いますよ。……あの、前にずっと見ている夢があるって言っていましたよね?」
「え、うん、言ったけど、それがどうかした?」
「もし土井さんが嫌じゃなければ、詳しく教えてほしいんです」
「……え?」
この頼みは予想だにしなかったらしい。半助の言葉が詰まる。その間に店長がやってきて、「どうぞ」という小さな言葉とともに半助へと紅茶が淹れられたカップをソーサラーに乗せて差し出した。半助は受け取り、一口すすってから、大きく息を吐く。
「……どうしてまた急に? そんな面白い話でもないだろう」
かたんと机の上に置いて、半助が真っ直ぐ利吉を見据えた。
「それが、私も土井さんに影響されたのか、似たような夢を見てしまったんですよ」
「本当かい?」
「ほ、本当です」
立ち上がらんばかりの勢いで半助が身を乗り出し、尋ねてくる。まさかそこまで反応されるとも思わず、利吉は圧され気味になりながらも頷いた。
「夢については話しても構わないけど、まずは君が見た夢から教えてくれないかな? オリジナルとしては君がどんな夢を見たのか気になるんだ」
「ははは、そうですね……解りました」
利吉は逡巡し、それから素直に応えを返した。ただし、利吉が土井へとキスをした事などはもちろん言うつもりはない。当たり障りのない所だけを掻い摘んで話す。ずきんとまた頭痛がしはじめたが、出来る限り意識しないように努めた。
「…………」
話していくにつれて、半助の顔は段々と険しいものになっていった。そんなに驚くほど夢の内容が一致していたのだろうか。自分の想像力も舐めたものではないのかもしれないなあ等とのんきなことを考える。
「……驚いたよ。私が見ている夢と随分似てるじゃないか。君は想像力が逞しいんだねえ」
無理に浮かべた事が解る笑顔で半助が言う。その表情を見て、利吉はこんな話をした事を若干後悔したが、ここまで一致するとなると流石に気になってくるものだ。
「ということは、貴方の夢にも私が出てくることはあるんですか?」
「まあ、たまーにね。君とはここ最近、かなり会っていたし」