めかくしセカイ
[逃避]
熱い。
暗闇に包まれた室内に、荒い息遣いがこだまする。
「土井、先生……ッ」
半助の体を揺さぶりながら、利吉が途切れ途切れに名を呼ぶ。これから長い任務へ赴くからか、普段よりも利吉の動きは随分と荒々しいように感じた。情け容赦なく、ひたすらに突き上げられながらも、瞑っていた瞳を開き、半助は自身を抱いている相手を見上げる。同性である自分から見ても、整った顔立ちが、快楽を堪えて歪んでいるのが見えた。決して矜持が低いわけではない彼が、この瞬間だけは全てをかなぐり捨てて、ただ必死に半助を求めていることが解る。
「り、きちくん」
声を出すのも儘ならぬなかで、精いっぱいの愛おしさをこめて、小さく名を呼び返す。聞こえるか聞こえないか程度の声音だったが、耳のよい利吉には届いたようで、動きは止めぬままにこちらの瞳を覗き込んできた。その目はやはり必死さを滲ませていて、それでいてこちらを気遣う色も見える。
私は大丈夫だよと、口で言う代わりに片手を伸ばせば、ぱしと掴まれた。そのまま指を合わせられ、床に縫いとめられる。汗に湿った手のひらが触れ合うことすら、いまの状況では淫猥なものに感じられてしまう。
「土井先生……半助さん……っ」
ぐ、と握り合った掌に力が込められたと思えば、かみつくように接吻をされていた。するりと口内に利吉の舌が入り込み、器用な所作で半助の歯列をなぞり、舌を絡めとる。半助もなかば条件反射で、相手のそれを捉え、擽り、呼吸すらも奪う勢いで快感を与えあう。
それからどれほどのあいだ接吻をしていただろうか。不意に利吉が唇を話した。互いの間を伝う唾液の糸が、月明かりに光り、艶めかしい。
「好きです、土井先生、愛しています」
もはや発することの出来なくなった言葉の代わりにコクコクと首を上下に振れば、利吉の顔にうっとりとした笑みがのぼった。触れるだけの口付が、唇だけといわず、全身に降り注ぐ。
ああ愛しい。他のことは考えられない。ただ目の前の相手が愛おしい。
空いた片手で相手の背を必死に掴み、生理的に浮かぶ涙で視界を歪ませながら、半助はただひたすらに自身を貪る愛しい相手を見つめ、いまこの時に共有している快楽に身を任せた。
「…………ッ!」
半助は勢いよく目を見開くと、跳ね上がるように上半身を起こした。顔を青ざめさせながら、周囲を見渡す。白い天井に、古い小さなテレビ、壁に掛けられたよれよれのスーツ、仕事用に買ったノートパソコン――確かに自分の、現代における自分の部屋だった。
「い、今の夢は…………」
じっとりと全身が脂汗に濡れているのが気持ち悪い。半助は不快感に眉を顰めながら、痛む頭を片手で押えた。
「あれは、利吉くん……?」
頭の中が混乱している。心の中で呟いているつもりの言葉がぽろぽろと口から零れる。
確かに利吉に合う前から、『山田利吉』と『土井半助』が恋人同士であるといった夢は見てきた。利吉と会うたびに、二人きりのシーンを見る回数が増えていたのも確かである。だが、それは例えば仕事に出かける前のちょっとした会話だとかの些細な場面ばかりで、恋愛のにおいも仄かに匂っていた程度だった。こうした直接的なシーンを見ることなんて今まではなかった。
夢とは思えない、まるで現実に利吉と抱き合っているかのようなリアリティがあった。繋いだ手の感触が、夢から覚めた後も残っている気がして、半助は掌を茫然と見つめる。途端に、じくりと下腹部が疼いた。自分は夢の内容を思い出して少なからず興奮しているのだろうか。そういえば、こんな夢を見たことが信じられないと思いこそすれ、嫌だとは思わなかった。男に抱かれていたにも関わらず、だ。
嫌な方向に流れだした思考をいったん打ちとめ、とりあえず立ち上がろうと足を動かすと、不意に、下半身に違和感を覚えた。眉をひそめ、ぺらりと布団をめくり上げる。すぐさま原因は解った。自分はあろうことか、あの夢を見て、夢精していたのだ。
「…………はは、はは……」
もはや空笑いしか浮かんでこない。セックスの夢を見て夢精で下着を汚すなど、ヤりたい盛りの高校生のようではないか。
抱くべき嫌悪感を抱かない。それが現わすことは何なのか。
そんなことは考えるまでもない。夢の中に影響されたのか、それとも自発的かは解らないが、自分も利吉を好いているのだろう。もちろん、劣情を催す種類のそれで。
もはや溜息を吐く気力すら残っていない。半ば放心状態になりつつも、半助は風呂場へと向かった。体を洗わなければなるまい。向かう途中に窓から外を見てみれば、深夜ほどではないにせよ、まだ町は暗闇に包まれたままであった。
緩慢な仕草で服を脱ぎ、シャワーに打たれる。混乱していた頭が、湯にあたり少し落ち着いたのが解った。細く長く、息を吐く。それから、ゆっくりと目を瞑り、今までは気にとめていなかった――いや、できる限り深く考えないように努めていた、夢の中の自分と『山田利吉』に関する記憶を集めてみた。断片的な記憶しかないはずだが、まるで既に全てのピースが揃っているかのように、多くの事を思い出すことができた。出会い、惹かれあい、思いを通じ合ったその過程が、まざまざと脳内で描かれていく。
だが、一つだけ思い出せない。それは別れだ。
「まだ、見ていないのか?」
緩慢な動作で体を洗いはじめながら、つぶやく。 利吉とのことを抜いても、概ねの事は既に夢で見たように思うのに、そこだけはどうしても思い出す事ができない。利吉に聞けば解るのだろうか。
「……利吉くん、か」
ふと、先日久しぶりに会った時のことを思い返す。あの日の利吉は妙だった。半助は確かに利吉に夢について少し話はしたが、伝蔵のことや、詳しい夢の内容までは話していなかったはずである。それを利吉は、夢で見たと言っていた。奇しくも、半助が当初利吉に接していった目的が果たされたわけだ。どうでもいいと思った今になって。やはり、あの夢は偶然だとか妄想だとかの言葉で片づけられない何かがあるのだろう。自分でも信じられないが、それこそ前世の記憶だとか、どこかにある平行世界の自分だとか、そんなものなのかもしれない。もしそうだとしたら、自分はまたこの時代・世界でも、利吉に惹かれたというのか。安っぽいメロドラマにだって、今時もうないような展開だ。わが事ながら、思わず苦笑いすら漏れてくる。
体中の泡をシャワーで流し、半助は風呂を出た。衣服を身にまとい、部屋に戻る。忘れないうちにと、布団のシーツを剥がして、洗濯機に投げた。出来る限りみないようにしたが、放り込む際にちらりと染みになっている部分が視界に入ってしまい、げんなりした気持ちで、頭を左右に振る。きり丸はどこかで寝ているようで、姿は見えなかった。むき出しになった布団へと腰をおろす。
利吉には、もう会わない方がいいだろう。
初めて会った時、利吉は夢など見ないと言っていた。見ても忘れてしまうと。それが今では、夢を見て、あまつさえその内容は半助の夢と同じと来た。どう考えても、自分が影響を与えたとしか思えない。