めかくしセカイ
「本当に助かりましたよ。幾ら夏とはいえ、雨も降っていないのに濡れ鼠の状態で帰るのは恥ずかしかったので」
苦笑交じりに言いながら、袋に入れたタオルを差し出した。「いえ、たいしたことではありませんので、気になさらないでください。今日は飲んでいかれますか?」
「はい、折角ですし是非」
「有難うございます。それでしたら、お好きな席へどうぞ。この時間はあまりお客さんがこないので」
「うーん…………なら、カウンター席でいいですか?」
半助はどうすべきかと僅かに迷った後、手近にあったカウンター席へ座ることに決めた。少しでも良いので、さり気なく利吉を探ってみようと思ったからだ。
「構いませんよ。どうぞ」
勧められた席に座り、近くにあったメニューを開く。一通りを眺め、半助が頼むものを決めた頃には、既に利吉はカウンターの中へと入り、注文を待っている状態だった。
「それじゃあアイスコーヒーを」
「かしこまりました。……店長、アイスコーヒー一杯お願いします!」
利吉は半助へ店員らしく軽く頭を下げると、店の奥の店長へ向かって注文を告げた。寡黙な人柄なのか、店長は言葉で返事をする代わりに、こくりと小さく頷き、背後にある棚へと体を向けた。おそらくそこに豆が入っているのだろう。
「あなたはコーヒーや紅茶を淹れないんですか?」
「はい。あ、もちろん家でインスタントなら淹れることはありますけど、店ではやりませんね。人からお金をもらえるレベルのものでは到底ないので」
「へえ、そうなんですか。この前来た時は一人でお店にいらっしゃったものだから、てっきりコーヒーも淹れられるものだと思っていました」
利吉がサービスの冷水を差し出す。半助はそれを受け取り、わずかに口に含んだ。自分で意識していた以上に暑さで渇きを覚えていたらしく、体にしみわたっていくように感じる。
「実は注文を頂いた時には奥に店長がいたんですよ。ただ、その後にちょっと用事で出てしまったので、あの時は正真正銘、私一人でしたけどね。……ところで、土井さん、でいいんですよね?」
爽やかな笑みを見せていた利吉が、不意に表情を改めて尋ねてくる。半助はまさか相手が名前を覚えているとは思わず、僅かに驚きながらも問いかけに応え頷いた。
「はい、そうです」
「……あの、失礼を承知でお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「え、あ、はい、どうぞ」
利吉が言い辛そうな様子で言葉を発する。どうしたのだろうかと怪訝に思いつつ言葉を返した半助の脳裏に、ある一つの考えがよぎった。もしかすると、あの夢にかかわるような発言が出てくるのではないだろうか、と。
自然と半助まで表情を改めながら、じっと利吉の言葉を待つ。暫く躊躇った後、利吉がおずおずと口を開いた。
「……おいくつ、なんでしょうか?」
「……へ?」
「あっ! もちろんお答えになりたくなければ答えていただかなくても構いませんので!」
予想外の質問に思わず間抜けな声を上げながら、ぽかんと利吉を見つめた。慌てた様子で利吉が言葉を付け足す。半助は意図の解らない質問に対し大いに困惑しながらも、片手をぱたぱたと左右に振った。
「いやいや、別に男なんですし、年くらい聞かれても何とも思いませんから。ええと、今年六月で二十五になりましたが、それがどうかしました?」
「二十五歳、ですか」
ぽつりとつぶやき、何やら考え込むそぶりを見せる。半助は利吉が何を考えているかさっぱり理解できず、あきらめて利吉が思索から帰ってくるまで口を閉ざした。
「不躾なお願いばかりで申し訳ないんですが……」
不意に、利吉が言葉を発する。今度はなんだ、と半助が利吉を見やると、利吉は一呼吸置いてから言葉をつづけた。
「敬語のほうを、抜いていただけませんか?」
「え、敬語を?」
「はい。土井さんのほうが年上なのに、気を使っていただいているようで申し訳ないので。あと……」
「あと?」
言いかけ、口を閉ざした利吉を反射的に促す。
「我ながら会って間もない方に変なことを言っている自覚はあるんですが、土井さんが私に敬語を使われるのが妙に落ち着かないんです。まぁたぶん、私が今まで年上の知り合いに敬語で接せられた事がほとんど無いせいだとは思うんですけどね」
後頭部を軽く掻きながら、利吉が恥ずかしげに笑う。
利吉の言うとおり、初対面に近い相手に申し出るには妙な願いである。だが、それが真に初めてではないなら別だ。半助自身も実際、夢の中の利吉に対しては敬語を使っていなかったため、喋るたびにどうにも違和感を覚えていたのである。やはり利吉も同じなのだろうか。
グルグルと思考をまわしながらも、半助は怪訝に思われないよう利吉へと笑みを向けた。
「解ったよ。ええと、利吉くん、だよね?」
「よく覚えていらっしゃいましたね」
「君だって私の名前を覚えていたじゃないか。きっと同じ理屈だと思うよ」
「そう言われると確かに。やはりお互い珍しい名前だと、こういう時は得ですよね」
「名前としては地味なのに、変にインパクトがあるみたいだからなあ」
苦笑しながら肩を竦める。その時、店の奥で黙々とコーヒーを淹れていた店長がこちらへやってきた。
「……お待たせいたしました」
「有難うございます」
やはり寡黙な人のようで、ぶっきらぼうな顔でコップを差し出される。お礼の言葉とともに受け取った半助に対し一礼をして再び奥へと戻っていってしまったが、店員である利吉が客と親しげに話していても怒らないあたり、寛容で融通の利く良い人なのかもしれない。
「うん、美味しい」
「でしょう? 私も店長のコーヒーが大好きなんですよ。それ目当てでバイトしているって言っても過言じゃないですね」
一口啜り、口内に広がる風味をかみしめながら呟くと、利吉が嬉しそうに同意してきた。本当に好きなようで、その笑顔は活き活きとしている。
「良ければ、これからも贔屓にしてください」
「ははは、本当に通っちゃいそうだよ。駅前で同じ値段を払うなら、このお店のほうが美味しい上に家も近い」
言いながら、また一口含む。利吉のことを抜いてもまた来たい思わせるくらいには、このコーヒーは美味だった。この前来た時は状況が状況だったせいで、あまりコーヒーの味を気にしていなかったのだ。さらに言えば、たとえ気にしていたとしても、別れた彼女にひっかけられた水がコーヒーの中にも幾分か入っていたため、世辞にも美味いと言えるものではなくなっていたというのもある。
「あれ、お住まいはこの近所なんですか」
「そうそう。このあたりは交通の便が悪くないわりに家賃が安いから一人暮らしには便利でねえ」
「そうなんですよね。まあ中心部に行くには乗り換えが一回は必要だから、場所の割に安い値段なんでしょうけど」
このような調子で半助と利吉はしばらく談笑を続けた。住居の話から他愛もない様々な話題に転じていく。そこで解ったのは、利吉は現在学生で、大学進学と同時に田舎から上京してきたことと、この店の店長は親戚であることぐらいだった。夢の手掛かりは得られない。そう簡単なものでもないとは思っていたので、半助はそのことにはさして苛立ちも落胆も感じなかった。とはいえ、流石に手ぶらで帰るというのも悲しいものがある。