最果てに咲くスターチス
なんだか妙にテンションが高い気がする臨也さんとの通話を切って、最寄りのスーパーに立ち寄った。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、カレールー。そういや臨也さんは好き嫌いは無いのだろうか。あの人にんじんとか嫌いそう。訊き忘れたけど、とにかくカレーの材料を一通りそろえることにする。臨也さんから資金が下りるということで、お肉はちょっと奮発して、お値段高めのブロックの牛肉。この際だから僕ひとりじゃ絶対に買わないやつを。
材料の詰まったビニール袋を提げて店を出たところで、タイミングを見計らったかのように、臨也さんからメールが入った。画像が添付されていて、新宿駅から臨也さんのマンションまでの行き方が分かりやすい略図で説明されていた。
そういや、臨也さんがどこに住んでいるのか知らなかったっけ。新宿の高級マンション、ということくらいしか。今さらながら、初めて臨也さんの棲みかにお邪魔するんだ、とちょっとわくわくしてきた。
あ、今さらといえば、臨也さんちにお米はあるのだろうか。普段が小奇麗な出で立ちすぎて、あの人がせっせとお米を研いで自分でご飯を炊いている姿が、いま一つ想像しづらいのだ。まさかお米まで買ってこいとは言われていない。――あるよね?お米。うん、まさかね。
新宿駅から歩いてそう遠くないところに高そうなマンションがそびえていた。一生無縁と思っていた高級マンションに圧巻されながら、おそるおそる入り口のインターホンで呼び出す。オートロックの玄関から招き入れられて、乗り心地のいいエレベーターに運ばれて、僕は初めて臨也さんの住まいに招かれる事と相成った。
「いらっしゃい」
「お、お邪魔しまーす」
黒のシャツに黒のパンツという、いつも通りだがどこか気楽そうな出で立ちの臨也さんが、にこやかに出迎えてくれた。ひょいっと僕の手からスーパーの袋を取り上げ中身を検分すると、満足そうにうなずいて、「ほんっとうにオーソドックスなカレーなんだね、教科書に載ってるメニューみたい」と余計なひと言を付け加えて、すたすたと部屋の奥へ行ってしまった。「俺んち土足だから靴脱がなくていいよ」と振り向きもせず言いながら。なんで分かるんだろう、背中に目でも付いてるんだろうか。
残された僕はそろそろと彼の後を追う。広い部屋にお洒落な家具があって――と僕の貧相なボキャブラリーじゃあうまく伝えられない。とにかく豪華な部屋の奥にオープンなキッチンがあって、今にも臨也さんは踊り出しそうなほど機嫌良さげに、袋から夕飯の材料を取り出していた。悪いことを考えている時の邪悪な笑みではなく、相手を不快にさせるために皮肉を言う時の嘲笑でもなく、純粋に愉しげなそれを初めて見た気がする。
外に置いている物が少ないキッチンは冷たい印象を受けた。ステンレスの調理台は油汚れひとつ無く綺麗なものだけど、きっとほとんど使っていないからこその綺麗さなんだろう。
「えーと、それじゃあ台所借りますね」
「うん。要る物は勝手に使ってくれて構わないから。スパイスは買い置きのがあったと思うんだけど、まだ使えるかなあ」
「いや、ルーだけしか使いませんが」
臨也さんは瞬きし、そして笑いながら「カレールーって先人の偉大な発明だよね。それだけで美味しいカレーが作れるんだから」と言って、戸棚から深鍋を出してきた。よその一般家庭じゃスパイスなんてものを使ってカレーを作るのかな。うちは違ったからちょっとショックだった。僕のカレーは母親直伝、材料を切って煮込んでルーを溶かす、それだけだ。
僕が野菜を切っている傍らで、臨也さんはタッパーに入った米を計量カップで計ってそのまま釜にセットしていた。無洗米か!やっぱり期待を裏切らないひとだなあ。
僕にとって折原臨也という人は『非日常』の具現のようなもので、彼はある意味僕の期待通りの人だった。スリルとサスペンスには垢抜けない所帯臭さなんて似合わない。臨也さんはまったくその通り、作り物みたいな顔に作り物の笑顔を浮かべて、嘘臭い非日常の香りを振りまいていた。
食事をしている時もその点に抜かりはなかった。臨也さんとの食事はファミレスだったりファストフードだったり、お高そうな居酒屋に連れていってもらったりした。どこで何を食べ何を飲んでいても、臨也さんは辺りの風景に溶け込んでいた。楽しいのは楽しいのだが、あまり食べた気がしなかったものだ。
でも、だからこそ僕は今まで、臨也さんと向かい合ってのんきにご飯を食べていられたんだと思う。何も気づかず、余計なことに気を取られるでもなく、自然に。
後になって思えば、僕は臨也さんを一人の人間として見ていなかったのかもしれない。浮き世離れしすぎていて、自分と同じようにご飯を食べて顔を洗って歯を磨いてベッドで眠って、そんな日常の生活風景を想像できなかったから。でも、いつも臨也さんは言っていたのにね、「俺は普通の人間だってば」って。
「へえ、意外と上手いね、包丁の使い方」
「意外って何ですか。そりゃまあ三年近くも一人暮らしすれば、少しは使えるようになりますよ」
「俺はもっと長い事一人暮らししてるけど、いまだに得意じゃないな」
目ざとく切れ目の繋がったじゃがいもを見つけ、臨也さんはそれをむしってまた鍋に戻した。
「でも臨也さん、ナイフ使うじゃないですか」
「適材適所。威嚇用ナイフでりんごの皮は向かないし、果物包丁で相手を刺したりしないでしょ。君がお望みとあれば、やってあげてもいいけど」
「ぜひ!」
「いいけど、ナイフ錆びたりしないかな」
「いや、そっちじゃなくて果物包丁の方です」
「え」
臨也さんは僕の半ば本気の冗談に一瞬固まって、「ほら手が止まってるよ」と言ってリビングへ行ってしまった。正直、調理の邪魔だ。なぜだか、手先は器用そうなんだけど彼に手伝ってもらうという発想は無かった。
慣れない手つきで調理している僕に話しかけたり、隣の部屋に行ったかと思えばまた戻ってきたり、書類みたいな紙をめくったりしながら、ほとんどずっと臨也さんは僕の視界の中にいた。かといって仕事している風ではない。デスクトップ型のパソコンもスリープモードだった。今日は休暇の日なんだろうか、臨也さんはくつろいだ様子だった。
鍋をかき混ぜる手を止めて、僕はふと顔を上げる。生活感の無い部屋だと思っていたけれど、臨也さんが立ち止まったそこここから、彼の気配が感じられた。ああ、臨也さんはここで寝起きして、ご飯を食べて、仕事をしているんだ。そう思ったら、途端に生々しい感触を肌で感じ取ってしまって、居ても立ってもいられなくなった僕は、鍋をぐるぐるとかき混ぜた。
「帝人くん」
「うひゃぁっはいっ?!」
油断していたところに後ろからいきなり声をかけられて、変な声を上げてしまった。音もなく僕の背後に立っていた臨也さんが鍋を覗き込んでいたものだから。左耳の辺りに彼の顔があって、本気でびっくりした。
「あんまり混ぜすぎるとじゃがいもが煮くずれるんじゃない?それともこれが君流?」
「あ、あー、そうですね、いや違います!」――何言ってんだろ僕。
「結構煮込んだし、そろそろ食べられますよ」
「よし。ご飯炊けたところだから、いいタイミングだ」
作品名:最果てに咲くスターチス 作家名:美緒