最果てに咲くスターチス
食器棚から平皿とグラスを二人分用意して、何気なく臨也さんは言った。
「君、耳が弱いの?」
「はい?」
何がだろう。意味が分からなくて聞き直したのだけど、臨也さんの意識はもうカレーに向いていて、結局なんのことだか分からなかった。
いただきます。そろって合唱して、ステンレスのスプーンを手に取った。一口すくって口に入れる。――ん、普通だ。可もなく不可もないいつもの味。向かいの臨也さんの様子を伺ってみれば、多めにすくったご飯とカレーを結構なハイペースで口に運んでいる。不味くはないんだろう。グラスのミネラルウォーターを半分ほど空けてから僕の視線に気づいた彼は、「おいしいよ、これ」と笑みを浮かべた。ほっと安堵する。
「臨也さん、カレーが好きなんですか?」
「いや、別にそれほどでも」
だよねえ。前に一緒にチェーンのカレーショップへ行った時も、好物を食べているようには見えなかったし。
「じゃ、何が好きですか?」
「調理した人の個性が見られる料理、かな」
「は?」
折原臨也語録は相変わらず理解不能だ。それは新手の料理の名前なのか。そんなわけない。具体例を下さい、具体的な料理の名前を。
水で口を潤して、臨也さんはスプーンを置いた。
「食べられない食べ物は何か、という問いなら『特に無い』と答える。だから普通の食べ物は大抵食べられる。にんじん、納豆、レバ刺しからジンギスカン鍋までだいたいね」
長い長い!そしてまた無駄に理屈っぽいなあ。
「カロリーを摂取する目的で食物を消化しなきゃいけないなら、やっぱり何でも食べるよ」
「食事をそういう言い方しないで下さい……なんか食欲減退します」
「うん、だからね、個人的な嗜好上食べたくないという料理ならあるんだよ。レトルトとか、個性の無い味ね」
「ああ、やっと分かりました」
「だから俺、最初に君に『これを作ってほしい』とか『これは食べたくない』とか言わなかったでしょ。君が作ってくれるものなら何でも良かったから」
最後の一言を無責任な投げやりと取るか、僕を信頼して丸投げしてくれたと取るか。僕はもちろん後者だと解釈した。うわあ、それってかなり嬉しいことじゃない?
「でも、カレーですよ?没個性の典型じゃないですか?」
「違うってば」皿の中でカレーとご飯を混ぜながら、臨也さんは口を開いた。
「まず最優先事項として失敗しないよう、そのリスクが低くなおかつ作り慣れたカレーを君はチョイスした。俺の嫌いなものは無いかなんて推測しながら、結局どの材料を選んでも地雷の場所は分からないから教科書通りのプレーンなカレーにした。君がスパイスを扱い慣れていないって一因もあったけど。牛肉は俺の金だからってちょっと奮発してみたりして。そろえた材料を、細心の注意を払って同じ一口大にカットして、ちょっとずつルーを足しながらいつも以上に気を遣って味を調節して、出来上がったのが市販のルーを使っているのにレトルトとは程遠い、竜ヶ峰家の味のカレーってわけだ。面白いことにね」
よどみない弁舌に、僕はぽかんと聞き入っていた。あれ、なんだか頬が熱いや。
やっぱりこの人には、背中どころか街じゅうに目があるんだ。まるで見てきたように語る。そしてそれがほぼ完璧に的を射ているのだからタチが悪い。
なんで分かるんだろう。それはもちろん臨也さんの情報収集と観察の賜物だ。それだけ臨也さんは僕に関する情報を集め、僕を観察していたからこそ。尋常ではない。僕は「ストーカーですか」と言うべきなんだろうか。でもおかしいな、どうして。
どうしてこんなに、嬉しいんだろう。
「俺が君に求めた料理。百点満点、パーフェクトだよ。美味しい」
「あ、ありがとうございます」
ぼそぼそと口の中で呟いて、カレーをすくって口の中に押し込んだ。味がしない。
もぐもぐと咀嚼して、皿を空っぽにして。臨也さんは綺麗に微笑んだ。
「美味しいよ。帝人くんの味がする」
「……言葉を選びましょうよ臨也さん」
平然と、臨也さんと差し向かいでご飯を食べていられた今までの僕は何処へ行ってしまったんだろう。目の前で、銀色のスプーンが薄い唇に収まる光景を見つめてしまって、慌てて視線を逸らした。まだお腹はいっぱいじゃないのに、胸がつっかえて手が進まない。うまく飲み込めない。
「ごちそうさまでした。ねえ帝人くん」
「お粗末さまでした!」
やっとの思いで平らげて、二人分の食器を重ねて運ぶ。何か言いかけた臨也さんに背を向けて。無理。僕無理もう無理。臨也さん真正面から見られない。
「帝人くーん」――あ、ちょっと怒ってるっぽい声?
「こっち向いてよ」
「は、は、はい」
振り返ると、テーブルに頬杖を突いて口元で笑った臨也さんは、僕の手の中の食器を指差した。
「割ると危ないから、先に流しに置いてきな」
「……はい」
観念した。ああたぶんきっと僕は、この人に逆らえない。真っ直ぐに目を見られなくなった時点で運命は決まったようなものだ。なんとなく汚れたお皿を洗う暇すら与えられず、どうしてこうなったのか、お遣いを終えて帰還する子どもみたいに覚束ない足取りで戻ってきた僕を、臨也さんは抱きしめた。抱きしめられている。顔が見えなくなって安堵したその替わり、もっと困った事に、いつになく間近に、それはもう心音が聞こえそうなほど近くに臨也さんの身体があったことだ。
「さて、お腹も満たされたことだし」
くぐもって聞こえる臨也さんの声は、いつになく真剣みを帯びていた。
「いざ、臨也さん?」
「んー」
いいねぇジャストフィット、そんな声が聞こえた。ひいいい!なんか頭の頂点辺りに臨也さんの顎がある気がする。悲しい身長差を思い知らされた。その上背に回された腕に力を込められて、身体が硬直している。高校に入って初めてのクラスで自己紹介した時よりも、受験の時よりも、ガチガチに緊張している。
「ずっと、こうしてみたかった」
「おおお腹がいっぱいになったら誰にでもこんなことするんですか?!」
「するわけないじゃん。君は俺を何だと思ってるの」
本気で不機嫌そうな声。そこでようやく抱擁を解かれて、でもやっぱり臨也さんの顔がすぐ近くにあった。
いやにはっきりと、臨也さんの声が耳に届いた。
「こうしても、君は嫌じゃない。どころか、案外悪くないと思っている。もっと言うなら俺はキスしたい。それでも君は結局拒否しないよ」
有無を言わさぬ断定系。さっきのカレーの時と似ているけれど、どこか違う。
「そ、それも趣味の人間観察の結果ですか?」
「半分正解。後の四分の一は妄想で、もう四分の一は、君への懇願かな」
頬が上気していく。触れられている肌が熱い。
それでもいいかな、と思った。流されちゃえ、と。ドキドキがわくわくと錯覚して、いつもの渇望に似たものが頭をもたげて、面白そうじゃんそそのかされてしまえば?とそそのかしている。
僕は臨也さんを見上げて、さっきよりも顔同士が近づいていて。
はっ、と我に返った。
「ま、待って下さい臨也さん!」
「……なに?」
「ででできればその、買い置きの歯ブラシなんてあれば貸して頂けないかと!なければコンビニにでも買いに行ってきますから!」
作品名:最果てに咲くスターチス 作家名:美緒