最果てに咲くスターチス
「気に入ってるやつなんだけどね、どうも最近痩せたみたいで、指からすっぽ抜けそうになるから困ってるんだ」
「臨也さん、細いから」
「君には言われたくないけどね」
ほら、と腰回りに腕を回されて、「うひゃあ!」と声を上げてしまった。
「い、臨也さんっ」
「君の指のサイズに合うようになったら、あげてもいいよ、それ」
まあ今はとりあえず、と臨也さんは腕に力を込めて。
「おやすみ、帝人くん」
低くてよく通る美声が、今は掠れてしまっていて。色っぽい声に耳をくすぐられながら、僕は疲れた身体から力を抜いて、意識を手放した。
目が覚めると、僕は自分の下宿の布団の上に横たわっていた。
*
「あれ?」
目を開ける。古びた天井が見える。
すっかり見慣れたオンボロアパートの僕の部屋で、僕は布団を敷いて、記憶にある夕方に出かけた格好のまま、横たわっていた。窓から外の光が差し込んでいる。
確か僕は夕飯前に臨也さんに呼び出されて、臨也さんちのマンションでカレーを作って一緒に食べて、両想いだって事が発覚して、抱き合ってキスしてあんなことして――?
いつの間に自分の下宿に帰ってきていたんだ。疲れ果てて眠り落ちた辺りからの記憶が飛んでいる。夢?あんなリアルな夢があるのかな。疲れや下半身の鈍い痛みは消えている、けれど恥ずかしい事、気持ちよかった事、全部ぜんぶ覚えている。
分からない。やっぱり夢だったのかな。でなければ僕の幻覚妄想だったのかもしれない。だって本当に、アパートに帰ってきた記憶が無いのだから。
「……あっ」
僕は指を丸めて固く握りしめていた。手のひらを開くと、硬質のそれが鈍色に輝きながら布団の上に転がった。
事に及ぶ前に、臨也さんが自分の指から外していたシルバーのリングが、僕の目の前で燦然と存在を主張していた。夢じゃなかったっていう証明みたいに。
ケータイで時刻を確認してびっくりした。もうすぐ昼の三時になろうとしていた。いくら何でも寝過ぎだろ!
まずは臨也さんのケータイに掛けてみた。今日は土曜で学校は休みだし、臨也さんと僕の性格上あのまま泊らせてもらう方が不思議ではない、と思う。いや、別に泊らず帰宅したことがものすごく奇妙だとは言わないけど、なんとなく違和感が拭えなかった。
昨夜の出来事が僕の夢だったとして、やかましく電話を掛けて臨也さんに迷惑を掛けてしまったなら、誠心誠意謝ればいい。まずはとにかく彼の声が聞きたかった。
『お客様のお掛けになった電話番号は、電波の届かない所にいるか、電源が切られているためかかりません。お客様のお掛けになった電話番号は、』
果たして、電話の向こうから聞こえてきたのは、そんな単調な応答の繰り返しだった。そういや臨也さん、邪魔されたくないとか言ってケータイの電源切ってたもんな。
会いたい、臨也さんに会いたい。せめて声だけでも。何度も彼のケータイに電話を掛けては機械的なアナウンスにそっけなくあしらわれ、僕はケータイを握り締めて着の身着のままアパートを飛び出した。なんだかとても嫌な予感がした。背筋が凍りつきそうな、嫌な感覚が。
「あれ?岸谷先生から電話あったんだ?」
慌てていたから今頃気づいたのだが、昼前頃に知り合いの闇医者の先生から電話があったらしく、不在着信が残っている。一緒にいざこざに関わって、その流れで互いの電話番号は交換していたけれど、先生から電話が入るのは珍しいことだった。
掛け直してみると、数回のコールの後、『帝人くん?!』と本人が出た。
「もしもし、すみません電話出られなくて!」
『いやいいんだ、ところで帝人くん、これから会える?』
デジャビュ。呼吸が苦しくなった。
『……帝人くん?もしもし?』
「あ、はいすみません、大丈夫です!先生のマンションに行ったらいいですか?」
『そうしてもらえると助かるよ。僕ちょっと自宅を離れられなくてさ』
「今うちの近所にいるので、これから向かいます」
臨也さんに会いたくて堪らなかったのだけど、電話の向こうの先生は妙に焦っている声で、急き込むように喋っていたのが気にかかった。
気もそぞろな心中を読まれたみたいに継いだ先生の言葉に、心臓が止まってしまうかと思った。
『折原くんの事で、どうしても君に話すことがあるのと、それから訊きたいことがあるんだ』
同じく高級なマンションではあるけれど、臨也さんのそれとは違って、岸谷森羅先生の自宅は生活感が感じられた。きっとセルティさんの貢献するところが大きいんだろう。
リビングに通されてソファに座った。今日は珍しく先生ひとりだった。セルティさんは仕事に出ているのだという。
「呼びつけて悪いんだけど、まずはこれを見てくれるかな」
僕の前に座った先生は、ソファと揃いのテーブルの上に手に持っていた物を置く。
「これ、帝人くんのだよね」
「あっ、はい、僕の財布です!」
見慣れたそれを出されるまで、ポケットにあるべき物が無かったのに何も感じていなかった。どれだけ慌ててたんだろう僕は。
「だよね。中身を確認させてもらったら君の学校の学生証が入ってたから、警察には知り合いの子の忘れ物だって言って預かってきた。これ、折原くんちにあったんだけど、帝人くん、いつ彼の家に行ったの?」
「警察?ええと、昨日、お邪魔したんですけど」
「そっか」
腿の上で手を組み替えて、伏せ目がちに視線を落とす先生の顔には、濃く疲労の色が浮かんでいた。
「私としたことが、ちゃんと言葉がまとまらない。単刀直入に言わせてもらうね」
先生はひとつ息を吸って、ゆっくりと吐き出して、言った。
「折原くんが死んだよ」
時間が、止まった。
あれでも高校以来の友人なんだから、きっと先生もかなり参っていたんだろう。あるいは、隣にセルティさんがいたなら、「あんまりそういう事情はぺらぺら喋るもんじゃない」とたしなめていたかもしれない。このふたりのことだから、臨也さんと僕の関係を知っていたなら初めから気を遣って何も教えてくれなかっただろうけれど。
頭が真っ白になって硬直している僕には構わず、先生は言葉を継ぐ。
「折原くんは自宅近くの裏路地で倒れているのを発見された。病院に搬送されたけれど手遅れだったらしい。拳銃で撃たれていたのと、彼の仕事内容を考えれば、たぶんその筋のトラブルに巻き込まれたんだろうね」
だから、残念だけど犯人は検挙できないと思う、と先生は悔しさとも諦めともつかない顔で言った。
話を聞きながら、徐々に僕の頭の中が落ち着きを取り戻していくのが分かった。どうして、そんな馬鹿な、とわめく感情を理性が凌駕していく。頭の芯がすっと冷えていった。情報を集め分析するんだ、より確実に現状を把握するために。
忌むべき業なのかもしれない。でも実際のところ、それはただの現実逃避だったのかも。嫌な予感も後押しして、『歴然たる事実』から目を反らしたくて、理性が勝手に暴走していた。
平然としているように見えても、やっぱり僕はぎりぎりの崖っぷちに一本足で立っていたのだ。
「それで、今臨也さんはどこに?」
作品名:最果てに咲くスターチス 作家名:美緒