妖鬼譚
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視界一面に広がるのは、ふわふわと幾つも綿菓子のような雲が浮かんだ青い空。
確か学校に行く途中に人とぶつかって、それで……と、未だあやふやな記憶を手繰り寄せて意識を手放す直前の事を思い出した謙也は、慌てて横になっている身体を起こそうとしたのだが、まだ微かに頭の芯がキリキリと痛んでどうにも身体の自由が利かない。
と、そんな自分の頭をそっと撫でている掌の存在にやっと意識が向く。それと同時に自分が誰かに膝枕されている事実に気が付いた。
誰がそんな事を、と目を動かすと視線が合ったのは、心からの安堵の表情を浮かべた美しい貌。先程衝突した人や、と痛む頭で記憶を引っ張り出した。そしてこの場所が、倒れた路地のすぐ近くの公園のベンチだ、という事も分かる。
「漸く目ぇ覚ましたな」
「あっ、えぇと……」
「急に目の前で倒れられたから、どないしたらえぇんやろってめっちゃ焦ったで」
謙也が意識を取り戻した事が嬉しいのか、青年が柔らかな笑みを零したのを見た瞬間、ホロリ、と謙也の頬を涙が一筋伝い落ちた。それを見た青年は、先程とは一転して動揺した面持ちになる。
「ど、どしたんや?」
「何や分からんけど、アンタ見とると泣きたなんねん……」
青年は、後から後から溢れ出す涙をどうにかしようと目を必死に擦る謙也の手を抑えると、そっと頭を撫でていた繃帯の巻かれた左手で涙を拭う。
その手の優しさに益々涙が止まらず、胸がまた音を立てて軋んだ。
「なあ、アンタは誰なんや……?」
「俺の事、忘れたんか、謙也?」
「……しらいし?しらいし、くらのすけ?」
「そうや、俺は白石蔵ノ介や!!」
唐突に脳裏に浮かんだ名を口にすると、青年――白石の顔がパッと華やぐ。
見知らぬ人間の名を何のヒントも無しに当てた自分にまただ、とは思うが、今度は何故という疑問は涌いて来ない。この男は自分の名前を知っていて当然だし、自分もまた彼の名を知っている事は当たり前なのだ、と理由も根拠も無いが、そんな強固な確信があって、謙也も涙を止めると小さく笑みを浮かべてみせた。
そんな謙也の蒲公英色の傷んだ髪を、ただ黙って華の様に笑ったまま梳く白石。
静かだが居心地が良い空気の流れる中、何時迄もこうしていられたら、と謙也は願ったが、その穏やかな沈黙を破るように白石は、忘れる処やった、と手を止めた。そして。
「俺、謙也に渡さなあかん物があったんや」
「えっ?えぇっ!?」
そう言うなり、白石は自分の胸元に下げていた緑の石の首飾りを外すと、戸惑う謙也の手の中にそれをしっかりと握らせた。
すると、キリキリと痛覚を刺激し続けていた筈の頭の痛みが、陽光の前の淡雪のようにスッと音も無く消えてしまった。その事実に驚いて子供の様に目を丸くする謙也に、白石は微笑みを浮かべてみせた。
「これはな、御守りやねん。もう二度と謙也が倒れへんように怪我せんようにって、俺がしっかり呪いを掛けた代物から、めっちゃ効果あるで」
「お、おおきに」
別に自分はそんなに身体が弱い訳でもないのだから、こんな大袈裟な物をくれなくても、と思うのだが、それを拒否するなんて選択肢は存在しなかった。
なので、促されるまま首に銀鎖のそれをぶら下げると、白石は満足気に数回頷いてみせた。
「さ、謙也も無事に元気になったみたいやし、そろそろ俺は行くわ」
と言って、白石は謙也を起き上がらせると、ポン、とまるで幼子に対してするように謙也の頭を一つ軽く叩くと、名残惜しそうに立ち上がった。
が、少し屈んで視線の高さを謙也と同じにすると、肩に手を置いてくる。間近に白石の顔が迫り、いきなりそないに綺麗な顔近付けるとか、心臓がビックリして口からはみ出すわ、と謙也の頬に微かに朱が走る。その反応に白石はクツリと喉を鳴らして笑うと、胡桃色の瞳に真剣な色を宿して唇を開いた。
「なあ、謙也、一つ約束してや。俺と逢うた事、他の誰にも言わへんって」
「何でやねん?」
「何でも、や」
「……分かったわ、約束する」
「おおきに。ほな、またな、謙也」
白石はふうわりと笑って謙也の額に唇を落とすと、涼やかな花の薫りだけを仄かに残してこの場から立ち去っていった。
「な、何やねん、あの阿呆……」
鮮やかに焼き付いてしまった白石の唇の感触と微笑みを消したくて、首元の石飾りを強く握り締めると、未だ熱の引く気配の無い頬や額を叱咤するように何度も叩くが、全く効果は無い。
結局、遠くから授業の開始を告げる鐘の音が聞こえても、腰が抜けた謙也は立ち上がる事が出来なかったのだった。