妖鬼譚
第一章 出逢
『謙也……』
まるで慰撫するような、慈しむような、そんな柔らかく包み込む穏やかで優しい声。
その声が遠くから俺の名を呼ぶ度に、心の奥底から沸き上がる切なさや愛しさに、自然と目から涙が溢れていく。
『謙也……謙也……』
霧の向こうにやっと見付け出したその声の主は、声に相応しい柔和な笑顔を浮かべて両手を広げると俺を出迎えて来れる。
俺はその身体に抱き付こうと、泣きながら必死に自分の腕を伸ばした……
*****
――……あかん。
――『また』や。
ベッドの上で両手を限界迄伸ばすという、傍目から見ても間抜けなポーズで目を覚ました謙也は、頬に触れて指先に冷たい感触を覚えると同時に顔を思い切り顰めてみせる。
自分の名をひたすらに呼び掛けられて、その声の主を探してひたすら靄が掛かった中を走り回り、そしてその人物を見付けて手を伸ばした処で、何時も尻切れ蜻蛉の様に唐突に終わってしまう。
こんな内容の夢を謙也が見るようになってから、既に二ヶ月近くが経っていた。
それも最初は一週間に一、二回程度だったのだが、今や二日に一回のペースでこの奇妙な夢を見るようになっていた。世界史の授業中の居眠りの時にこの夢を見て叫んでしまい、教師にこっぴどく叱られたのは、つい先日の事だった。
だが、この毎回のように見る不思議な夢には、一つ不可解な点があった。
それは、自分が夢の中で探していた人物の顔が何時も目覚めると記憶から綺麗さっぱりと消え失せてしまっている、という事だった。
唯一覚えている特徴と言えば、その男――この性別もまた覚えている特徴と言えなくもないのだが――が例える事が出来ない程に整った顔立ちをしていたという事だけ。
――野郎に名前呼ばれて、ボロボロガキみたいに涙流しとるとか、どんだけキモいねん、俺。
心の中で悪態を付きながら素早くパジャマから制服に着替えた謙也は、スヤスヤとケージの中で気持ち良さそうに安眠を貪るペットのイグアナの頭を軽く撫でると、テニスバックを背中に背負って部屋を飛び出したのだった。