妖鬼譚
漆章 惨劇 前篇
夕焼けに包まれた我が家は、何時もと変わらない姿の筈なのに、何処か俺には不吉な予感を纏っている様にしか見えない。
一刻も早く中に入って何時も通りに家族が皆居る事を確認しようと、俺は急いで玄関のドアノブに手を掛ける。
普段ならば鍵が掛かっている筈のそのドアは何の抵抗も無くスルリと回って、俺の胸騒ぎは更に強くなった気がした。
が、次の瞬間、その不安は一気に最大値迄引き上げられる事になる。
「何…や、これ……」
開いた扉の隙間から洩れ出て来たのは、生臭い鉄の臭い。
その濃密な血臭は家中に漂っているようで、何処から来ているのか、玄関からは判別が出来ない。
血と肉の腐臭に込み上げて来る吐き気を無理矢理気力で押さえ込むと、俺は靴を脱ぎ捨てて扉を蹴飛ばす様に手近の部屋へ飛び込んだ。
その扉の中にあるリビングの絨毯の上で、仰向けになって寝ていたのは、俺の母親。
一見する限りでは、目を閉じているその顔は穏やかで、本当にただ寝ているだけの様に見えなくもない。
――せやけど、その胸にあんな床が見えるような大穴は空いていただろうか?
――ウチのリビングの白いラグに、あんなに赤黒い色の模様なんてあっただろうか?
「おかん……?」
――返事は無い。
俺は恐る恐る近付いてその場に屈み込むと、その肩を掴んで必死に身体を揺さぶる。
「なあ、おかん、起きてや!!こないなトコで寝とったら風邪引くで!!早よ目ぇ覚まして夕飯作ってや!!お帰りって言うてや!!」
だが、何を言っても母さんは目を覚ます気配は無い。
当たり前だ。おかんは……もう息をしていないんやから。
「う、わぁぁぁああぁああぁぁ……ッ」
我に返った俺は、泣き叫びながらリビングを飛び出すと、隣の父親の書斎へと駆け込む。
そこにある革張りの立派な椅子の上には、おかんと同じ様に胸に大穴を空けて、着ている白衣を真っ赤に染めているおとんの姿があった。
やはり表情は穏やかだがその顔色は紙の様に白く、一目で既に息が無いのが分かった。
嘘だ嘘だと、壊れたように呟きながら父親の身体を叩いたり揺すったりするが、温もりを失った身体はどんな反応も返してはくれない。
泣きじゃくりながらフラフラと廊下に出ると、そこでは、ペットのイグアナと弟が寄り添う様にして倒れていた。
その一人と一匹にも両親と同じ様に胸に穴が空いていて、完全に事切れた状態だった。
可愛がっていたペットと最愛の弟の屍体を見ても、もう取り乱す気力すら湧かず、その場に呆然としゃがみ込んだその時だった。
ガタガタという音を俺の耳が捉えた。空耳かとも思ったが、再度似た様な物音が上の階からする。
狂った様に鳴り始めた心臓を押さえて、階段を上がると、確かに人の足音の様な物音が自分の部屋の中から聞こえた。
この中に家族の命を奪った仇がいるのかもしれないと思うと、自分の身の危険も顧みずに俺はその扉を開けた。
と、そこにはドアから少し離れた位置で、こちらに背を向けて立つ人影があった。その男の斜め上に真っ直ぐ伸ばした右腕が貫いていたのは。
「ひ、光……」
黒髪の生意気な後輩は、その男に胸を串刺しにされて宙釣りになっていた。
力の抜けた四肢はだらりと無様に垂れ下がり、真っ黒な瞳は、光を失って虚ろに何処ともしれない場所を見つめている。
と、唐突にドサリ、と重い音を立てて、光の身体が床へと投げ出された。
アイツの胸の大穴から止め処無く流れ出た血が、俺の足元をヒタヒタと濡らしていく。
俺に背を向けたままのその男は、右腕を振って付着してしていた血液や肉片を払うと、繃帯の巻かれた左腕で自分の髪を掻き揚げる。
その一連の動作は何かの舞の様に優雅で、俺は凍り付いてしまった様に何もする事が出来ない。
と、そいつはゆっくりと振り返ると、俺がいる事が分かっていたかの様にこの血腥い光景には似合わない華やかな笑みを浮かべてきた。そして。
「謙也、迎えに来たで」
甘く柔らかな声に呼び掛けられた瞬間、突然視界が爆発した様に真っ白になった……――