ピンクなきみにブルーな僕
忍足は安心させるように笑って、薄茶色い髪を若干乱暴に撫でた。それからさっと目で傷の具合を確認する。暗くてよくわからないが、制服の一部が若干切れているのが見える。体にまで及ぶものではないようだが、安心は出来ない。
「跡部、ちょお、ごめんな」
跡部の肩を離すと、忍足はまだ悶えている若い男の横に立った。爪先で軽く、その肩を蹴る。
「電話し。警察と救急車」
「あ…がっ…」
「大袈裟な兄ちゃんやな…そんな強く蹴ってへんで、俺。ほら、男やったらちゃっちゃっとやらんかい。そんくらいの怪我で情けない…玉ついてへんのか?アァ?」
しかし何と言われても、彼は起き上がれない様子だった。忍足は諦めて、ブレザーの内ポケットから携帯を取り出した。そして、あ、と思い至る。
「…一一〇番て携帯から出来たんやっけ…?」
結局、忍足は従兄に電話をかけた。正確には従兄の職場に。なんとなれば、彼は医者で、つまり携帯は使えない職場の住人なのである。従兄はとりあえず事態がややこしそうなことは理解したようで、近所の警察の番号を調べ、教えた上で自分もそちらに向かうから携帯の電源を入れて置くように、と答えた。こちらから電話して何だが仕事は大丈夫なのかと尋ねたところ、あと一時間でいずれにせよ交代なので、融通を利かせてもらうという返事だった。社会人が来てくれるのは正直ありがたかったので、忍足は彼の言葉に甘えることにした。
とにかく跡部のショックが大きいようだし、こちらが未成年、しかも一四歳未満なこともあって、とりあえず警察の事情聴集は明日に延期になった。相手も興奮状態で手がつけられないそうだし、それに忍足に蹴られた顎があまり芳しくないようだった。
親は呼べないと頑なな跡部を怒鳴り、宥めすかしてようやく彼の母親と連絡をつけられたのが事件が起こって数時間後。さらに彼の母親が血相を変えて飛んできたのがその三十分後。そのとき初めて、忍足は跡部の家が母子家庭なのだと知った。跡部は…、母親が現れると、何事も無かったかのような顔で笑って(忍足が驚くくらいに)、心配しないで早く仕事に戻って欲しいと訴えた。こんな時に何を言っていると彼の母親は怒ったが、跡部も譲らない。自分のことで彼女をわずらわせたくないのがよくわかった。先ほどの呆然とした跡部を見ているだけに、忍足は黙っておられず、気がついたら間に入っていた。やや呆気に取られる跡部の母(跡部とはあまり似ていない、小柄な人だった)に、今夜は自分が様子を見ると告げた。咄嗟に返す言葉のない彼女を置いて従兄を呼ぶと、後は頼むと残して跡部を引っ張っていった。
「…余計なことすんなよ」
しばらく行ったところで、跡部がぽつりと呟いた。と、忍足は振り向いて、容赦なくその頬をひっぱたいた。ぶたれた頬を押さえて呆然とする跡部に、忍足は冷たく言い放つ。
「強がりも大概にせぇよ、自分」
「………」
「…今な、おまえ、ひっどい顔してんで?めためたぶさいく。…ほら、おまえんち案内して。今日はついててやるておまえのお袋さんに言うたんやから、…俺を嘘つきにせんといて」
跡部は頬を押さえたまま、自宅に向かってようやく歩き出した。
…跡部の家は、地下鉄の駅からすぐの距離にあった。上がりこんで、忍足はまず―――呆れた。あまりの物のなさに。瀟洒なそのマンションは、忍足が住むマンションよりもよほど高級そうだった。階数も高かったし。…だが、なんとも、生活感というものがまるで感じられなかった。冷蔵庫の中もほぼ空に近い状態だし、掃除だけはされているようだったが、それにしても…という感じだった。あまりのことに、忍足など、一階にあったコンビニまで買物に走ってしまったくらいだ。
牛乳を暖かくして、その間に跡部を着替えさせた。寛ぐというには雰囲気がやや異なる、スラックスに余所行きな感のあるシャツ。それでも制服よりはましだろう。戻ってきた跡部にマグカップごと渡して、忍足は腕まくりしながら跡部が脱いだ制服をたたんだり風呂をたいたりしていた。
「ぼっとせんと、それでも飲んで。落ち着いたら風呂の支度して」
「………」
「…なん?」
両手でマグカップを抱えた跡部が、ちら、と忍足を見たので、幾分声を柔らかくして忍足は尋ねた。すると、おしたり、という小さな声が聞こえた。
「…。なんか話したいことでもあんの?せやったらちょとお話しよか?」
跡部は小首を傾げたあと、こく、と頷いた。忍足は制服の袖を戻しつつ、跡部の隣に腰掛ける。
「…俺んち、母子家庭でな」
「ん、それはさっき聞いた」
「俺、だから、ママには迷惑かけたくないんだ、あんまり…」
「…。その割には派手にお遊びしてんとちゃう?」
「それは…だって。…うちいても、ひとりだし…」
忍足は軽く溜息を吐いて、ママ、という幼い呼び方をただ心に留めた。
「さっきのあいつ、ちょっと前に知り合ったんだ。そんでたまに会ってたんだけど、なんかここんとこしつこくて。もう会わないつったら、なんか逆切れされ、…忍足?」
「跡部」
忍足が真剣な顔をして肩を掴んできたので、跡部は不思議そうに言葉を止めた。
「…今、おまえ、なんて言うた…?」
「?ちょっと前に知り合って?」
「ちゃう。…えーと…俺は、てっきり…なんか女の取り合いとかそんなんかなて思うてたんやけど。…そやないの…?」
軽く驚いたあと、跡部はああ、と顔を苦笑に歪めた。
「俺、どっちもいけるから」
「…………」
「ていっても、そんなやったりとかはあんまりしねぇけど…」
「……あんまり」
「ああ。あんまりしない」
忍足は軽く頭を押さえてうめき声を上げた。…ここでようやく、夕方の会話の齟齬に気付いたわけだが、気付いてもあまり嬉しくなかった。むしろ事態が混乱しただけのような気がする。
「…軽蔑したか?」
硬い言葉に、忍足は目線を上げた。そこにある顔には、見覚えが無かった。自信満々な普段の跡部とは違う、といって、つい昨日見つけた無邪気な彼とも違う、もっと深く、何か哀しみを抱えたような…。
いや、と忍足は首を振った。
「そんなんと人間性は関係あれへん。…俺はそう思うよ」
跡部がさっき、言ったのだ。「うちにいてもひとり」だと。
だとすれば、…たぶん、そういうことなのだろう。一緒にいてくれるなら、基本的に誰でも良いのだ、彼は。勿論好みはあるだろうが、根底にあるのが寂しさだとすれば、恐らくそうに違いない。
忍足は…、むしろかわいそうにと思ったのだった。母親の負担にはなりたくない、だから家にいて欲しいと、傍にいて欲しいと言えない。けれど寂しいから誰かに傍にいて欲しい。いてくれるなら、それが男でも女でも構わない…。
忍足はぐい、と跡部の肩を抱き寄せた。
「…!」
「…おまえ、…ほんまあほやなぁ。かわいそになるくらいあほな子やわ」
「…なんだよ」
「寂しいなら寂しいて、駄々こねたらよかったんや。変に聞き分けよくして…あのお母はんなら、おまえがちょっとくらい我儘言うたかて、おまえんこと嫌いになったりせぇへんよ」
「…。なんで、おまえにそんなことわかんだよ」
跡部は頭を忍足の肩に寄せながら、拗ねた口調で反論した。
作品名:ピンクなきみにブルーな僕 作家名:スサ