Monster
初めて出会った日のことははっきりと覚えている。
桜の舞う、穏やかな春の日。
その日、家康は中学の入学式へ向かう途中の坂道を懸命に走っていた。
彼には実の両親がなかったが、忠勝という名の養い親に慈愛を以って育てられたため、何の不満も感じることはなかった。
その養い親が、家康がいよいよ中学に入るという入学式のこの日、気合を入れて晩餐並みの豪勢な朝食を作ってくれたのだ。美味かったし、素直に感動した。だから家康もその祝福に応えるべく全力で食い、飲み、ちょっと調子に乗って食べすぎて家を出るのが遅れた。慌てた養父に急き立てられるようにして家を飛び出したのだ。
参ったなぁと思いながらも、全力で駆けても心地よい清々しい春の日に、家康は笑みすら浮かべながら走っていた。
そして、ようやくその坂道を登りきったというところで、
急に開けた視界に、太陽を浴びて銀色にひかるものを見つけた。
驚いて思わず立ち止まると、すぐに一人の少年の後ろ姿だとわかった。今日制服を着て学校へ向かうのは、新入生のみのはずだ。だから自分と同じく入学式へ向かう生徒だなと思った。
陽を反射して煌めいているのは鮮やかな銀糸の髪で、その珍しい色合いに感心した家康は、綺麗なもんだなあと思わず目を見張った。
家康は、綺麗なものがすきだ。そして好ましいものは好ましいとはっきり言う性質だ。
だから、それまで駆けていた足を早足程度にして、その後ろ姿に近づきながら声をかけた。
「きれいなもんだなあ、その髪のいろ。」
声に応えて相手が振りかえる。
背丈が低く、いまだに小学校中学年程度に見間違えられる家康とは違い、相手は凛とした顔立ちに静かな表情を乗せてこちらを見据えた。これで同い年かあと呑気に思いながら、家康はにかりと笑い、おめえも式へ向かうのか急がねえとな、と気楽に続けようとして、
――――相手の形相に言葉を失った。
そこには、振りかえった瞬間の落ち着いた面立ちは夢だったかと思わせる、異様に歪んだ顔があった。
生まれてこのかた見たこともないような鬼の顔だ。幼さを残す顔立ちと、その表情のアンバランスさが異常なまでの空恐ろしさを感じさせて、家康を芯から凍りつかせた。
その般若が何も言わぬままゆっくりと腕を振りかぶる。
そうして固まった家康の顔面に、少年は手に持っていた鞄を叩きつけた。
間違いなく全力で殴られ、家康はそのまま坂道に倒れこんだ。
地面に這って起き上がれぬまま、痛む顔を抑えた手の隙間から凝視した少年の表情は、逆光で見えない。
自然と涙がにじんだ。わんわんと痛みが頭の中を駆け回る。掌が鼻血でぬるりと滑った。その中で、耳にすとんと透き通る音が聞こえた。
「し ね」
これが生まれて初めて、他人の呪詛をくらった日だ。
結局入学式には遅刻した。式に出るより先に保健室へ向かう羽目になったからだ。幸い小さな瘤ができた程度で、鼻血も保健室へ着いたころには止まっていた。
どうしたのかと教諭に問われても答えようがなく、家康は坂道で転んで石にぶつかったのだと答えた。遅刻しそうで、走っていて。教諭は疑わずに、せっかくの晴れの日に怪我をした生徒を優しく介抱してくれた。
遅れて入った式場で、家康は戦々恐々としていたが、あの銀色の少年には出会わなかった。
あとで聞いた話によると、彼はその日入学式を欠席していたようだ。
その後式も終わり、小学校が同じ友人たちと遅刻についてからかわれたりしながら家に着いた。学校から連絡をもらっていた養い親は、もとはと言えば自分が朝食をはりきりすぎた結果家康が走ることになり、転んだのだと思ったようでずいぶん意気消沈していた。
家康は慌ててそんなことはないんだと弁明し、わらってみせた。
その晩、家康は眠れなかった。
家康の周りにだって、些細な喧嘩やふざけて調子に乗って、馬鹿だの死ねだのと他人を傷つける言葉を使うこどもはいた。だが、今日家康がくらった言葉は、それらとはわけが違う。
本物の、渾身の、呪う言葉だ。
家康は布団にくるまってちいさく震えた。暴力よりもあの短い言葉がとてもつらく、哀しく、恐ろしかった。
そしてなにより恐ろしいことは、一度だって会ったこともないと断言できる相手にこんな理由もない暴力を振われ、酷い言葉を投げつけられながら、
どうしてもそれを理不尽と思えないことだった。
なぜなんだ。
家康はまだ痛む額を抑えて呻いた。
おまえは、誰なんだ。