逃れられない理
2
それから僕の生活は一変した。何の変哲もなかった僕の日常は終わりを告げ、僕にとっては非日常が姿を現した。
この病院はとにかく騒がしかった。病院で騒がしいとは語弊があるかもしれないが、その言葉がとても的を射ているように感じたのだ。別に悪い意味ではない。寧ろ楽しい騒がしさだった。
正臣という別室の友人もできたし、その正臣つながりでいろいろな医師とも面識を持った。
僕が動けなかったのでほとんど正臣が僕の部屋を訪ねてくる場合が主だ。それに僕はしゃべり方を忘れてしまっていて話す事ができなかったが、それでも正臣とはうまくつきあうことができた。彼が人の感情に敏感だったのも幸いしていると思う。
正臣は僕と年が近いせいか趣味もいろいろ合って、話をしていてとても楽しかった。時々看護婦を軟派するのにはどうかと思ったが。
僕の担当医である新羅先生はとてもおもしろい人だった。なにせ一人称がころころ変わるし、よく四字熟語を使って話す。けれど先生の話はとても面白く、学校にさえろくに通えなかった僕にとっては有り難い話ばかりだった。ちなみに看護婦長のセルティさんとは恋仲(正臣談)だ。
腕はそうとなもので、ほかの先生からも一目置かれていたり、尊敬されていたりするのは僕の目から見ても明らかである。
門田先生、狩沢先生、遊馬崎先生は僕の病気とは関わりない先生だったが、正臣経由で知り合った。
とにかくこの先生たちのテンションはすごい。(門田先生はストッパーのようだ)
僕は何度目を白黒させたかしれない。先生たちは知り合いの人が経営しているマンションに住んでいるお隣さん同士だそうだ。本当に住む場所、仕事場所まで一緒だなんて仲が良いと思う。
そんなことをこの前言ってみたら、門田先生に「ただの腐れ縁なだけだ」と零された。確かにそうなのかもしれないが、それでも一緒にいるし、なにより腐れ縁だとぼやいていた門田先生も満更じゃなさそうだったから、やはり好きで一緒にいるんだなんと思った。
そしてこの頃、僕はあのとき思っていたことと正反対の事を考えている。
僕の中にもまだこんな感情が残っていたなんて信じられなかった。
「うーん」
新羅先生は僕のカルテを見ながら、一瞬くらい顔を見せる。僕は先生の表情に軽くショックを受けた。
そんな僕に気がついたのか、新羅先生が大きな明るい声でしゃべり出す。
「そんな暗い顔をしないで!病は気からというじゃないか。今度は違う薬を試してみよう」
うなずいては見せたが、僕の頭の中は暗い考えでいっぱいになる。
先生は苦笑して僕の頭を優しくカルテでたたいた。その仕草に僕は顔を上げて新羅先生を見つめる。
「この病院にそろっているのはすべてがエキスパート、医師も器具も情報も、ね」
だから大丈夫。そう笑った先生の笑顔には曇り一つなく、自信に満ちあふれていた。僕は先生の言葉と笑顔にほっと胸をなで下ろし、頭を下げる。よろしくお願いします、と伝えるために。
「うん!任せておいて」
僕は不思議に思うのだが、ここの医者たちはとても意思疎通が図りやすい。むしろ心理眼でも持っているのでは?と疑いたくなるくらい僕の思ったことが通じる。前いた病院ではあり得なかったことだ。
「さぁて!そうと解ればまずは体力をつけないとね!」
新羅先生はそういうと、扉の外に声をかけた。すると(外に待機させていたのだろう)看護婦たちが病理食を運んでくる。
「まずはしっかり食べて栄養補給。そして体力温存だ」
ゆっくり食べたまえ。新羅先生はそう言うと、看護婦たちをつれて僕の病室から出て行った。
僕はこの頃動くようになった(といってもほんの上下に動かすくらい)腕でスプーンを持ち上げて、殊更ゆっくりと己の口にまで運ぶ。病理食はどこもおいしくないものだと思っていたが、そんなことはないらしい。ここの食事は下手をすればそこら辺のホテルの食事よりも美味しいのではないかとさえ思う。
(まぁ、僕はこの方一切病理食以外を口にしたことなんてないんだけどね)
自分の考えに自分自身で苦笑してしまった。僕はとりとめのないことを考えながら、食事を続ける。
すると突然ノックオンが響き、病室の扉が開かれる。
「あぁ、そのまま食事していて良いよ」
現れたのは臨也さん。
この病院の医院長であり、院内一位の名医。やはり、僕の考えは間違っていなかった。
さりげなく新羅先生、正臣、門田先生たちに聞いてみたけど帰ってくる答えはほとんど一緒。
何かマニュアルでもあるんじゃないかと思うほど、一語一句が同じなのだ。
「どう?ここの食事はお口に合いますか?」
にぃと笑いながら聞いてくる、いつもとは違う口調に僕はドキマキしながら首を縦に振った。
いつもそうだ。臨也さんを前にすると心臓がやけに早く鼓動して痛いくらいに胸を突き上げる。
いったいどうしてしまったんだろう、僕の体。何か違う病気でも併発したのだろうかと新羅先生に尋ねてみたけれど、それは無いと断言されたばかりだ。
(・・・熱もあがってくるんだよね)
熱くなる頬をそのままに、僕は少しうつむき加減で食事を続けた。
臨也さんはそのまま僕のベッドの横に腰掛けると、懐から何かを取り出す。
「これ、新羅には内緒、ね?」
臨也さんの取り出したものに、僕は瞠目する。彼の手には可愛らしくラッピングされた透明な袋。
その中には色とりどりの包み紙と飴が入っていて、僕は臨也さんとその袋を交互に見つめた。
臨也さんはどこか子供のいたずらが成功したかのような、嬉しそうな笑みで唇に人差し指を当てる。
「これくらいの糖分摂取は大丈夫。俺が言うんだからへーき」
どうぞ、といいながら僕の手に握らせてくれた。僕は嬉しくて涙が溢れそうになる。
こんなに優しく気をかけてくれた人なんて、前まで考えられなかった。
「帝人くん・・・?泣いてる?」
急に涙をこぼし始めた僕を見て臨也さんが不安な表情を見せた。僕は首を一生懸命横に振る。
(違うんです・・・。違うんです臨也さん・・・。嬉しいから、嬉しすぎて涙が溢れちゃうんです)
どうしよう。泣かないようにと思えば思うほど涙が後から後から溢れて止まらない。
僕はスプーンをおいて、もう片方の手にあるお菓子の袋をつぶさないようにベッドに転がした。
「泣くほどのものじゃないよ・・・」
臨也さんは苦笑しながら、そっと僕の涙をぬぐってくれる。何度も何度も、ぬぐってくれて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「泣き止んだかな?」
優しい言葉に、僕はこくりとうなずく。頭をなでられ、頬をなでられる。
「帝人くん、まだまだ君の病気を治す方法は見つかってない。だけど、俺たちはがんばるから、君もがんばって」
臨也さんが笑う。自信に満ちた、満面の笑みで。だから、僕は未だ涙で濡れている瞳のまま笑った。
嬉しくて、安心して、心強い彼の笑みに答えるように。
あの頃とは違う感情、それは『生きたい』という願い、渇望。
こんなにも生に執着する自分がいるなんて、思いもよらなかった。でも、今僕は生きたい。生きたくてたまらないんだ。
だからお願いです神様。どうかどうか・・・。僕を見逃して下さい。どうか、僕を呼ばないで・・・。