逃れられない理
3
暗い病院内の廊下を歩き、明かりがのぞく部屋の扉を開ける。
そこには一人気むずかしそうにカルテと試料をにらみつけているこの医院内でもっとも権力のある人物が、一際豪華な皮椅子に腰掛けていた。
「臨也、これ言われてた資料」
新羅はそんな医院長に呆れながら、持ってきた資料をぱたぱたと仰がせた。
「そこら辺に置いておいて」
新羅が来たことは彼の足音で容易に解ったし、この部屋に来た理由もわかっていた。
それに新羅がミスをするはずもなかったので、別に見て確かめる必要もない。だから資料の置き場所を指先で指定した。新羅は頭をかきながら、言われたとおりに資料を置く。
「君この頃根詰めすぎだから。いい加減にしないと倒れるよ?」
「うるさい。用事が済んだらさっさと帰って」
「医者が過労で倒れるなんて笑い話にもならいんだけど?君が倒れたらあの子だってどうなるかわかったものじゃないからね?」
新羅の言葉に肩が震えた。ようやく顔を上げ新羅をにらみつける。そんなこと、言われなくたって解っている。
(五月蠅いよっ・・・)
けれど新羅はその視線に動じずに、肩をすかせてみせた。
「本当のことだ。今は僕が主治医になっているけど、彼の発作が出たら対応できるのは今のところ君だけ。
口惜しいけど、君にあの子の命がかかっているといっても過言じゃない。もし彼の発作が起こったとき、
君が過労で倒れていて使い物になりませんとかになったらどうなる?あの子は絶対に助からない。
そして、あの子が死んでしまったら君は後悔して後悔して壊れてしまうだろうね」
新羅をにらみながら、歯を食いしばる。確かに、もしそんな場面になったら自分は自分を許せないだろう。何のためにこんな人助けなどという馬鹿げた職業に就いたのか、解らない。
俺はため息をつくと、背もたれに深く寄りかかりながらとても疲れた顔をした。
「・・・解った。今日はこれでおしまいにするよ」
「そう。それじゃぁ、僕はお暇するよ。外でセルティが待っているからね!」
今度こそ俺は新羅の言葉にいらつきを感じた。人が初めての思い人を救おうと必死なのに、この男は目の前で惚気を言うのか、ああむかつく。
「あー、はいはい。とっとと出て行けこの万年常夏野郎」
「五月蠅いな、この万年ロリコン男」
新羅は極上の冷たい笑みを浮かべると、俺に背を向けて本当にとっとと部屋を後にした。
俺は背もたれに背を預けたまま、部屋の天井を見つめる。そしてまた深いため息をついた。
新羅の言ったことはもっともで、解っている。解ってはいるのに、とても焦っている自分がいる。
「帝人くん・・・」
帝人の柔らかい顔が視界を横切る。腕で顔を隠し、歯を食いしばった。
今のままでは確実に帝人は助からない。最先端と言われる医療が備わっているこの病院でさえ、直すことができない。悔しくて悔しくてたまらなかった。
何のために、己はこんな資格を取って外国まで行って学んで、ここを作り上げたのだ。これでは意味がない。
視界を暗くしたためか、はたまた疲れがピークを超していたためか、段々と眠気というなの悪魔がおそってきた。いけないと、まだやるべき事が残っているのに、と思うのに思考はどんどん深い闇へと落ちていく。
(帝人くん・・・・)
そのまま俺は意識を手放した。
木枯らしの音が耳をかすめる。不思議な浮遊感に眉をひそめながら俺はまぶたを開ける。
すると目の前にはさほど大きくない病院が建っていた。そしてすぐに場面が切り替わり、とある病室へと移る。
(あぁ・・・これ夢だね・・・)
苦々しく俺は笑うと、体を浮遊感に任せて、映っていく風景を見つめた。
どうしてこれが夢だと解ったのか?それはこれがおれと帝人くんとの出会いだったから。
俺にとっては忘れられない、人生を決めた出会い。
(彼は覚えていなかったけどね)
辛くなかったと言ったら嘘だけど、一方的に覚えているのは俺の方なので何も言えない。
今広がっている風景は殺風景な景色の見える窓と、これまた簡素な病室のベッドで横になっている一人の幼子。
その子供の肌は真っ白で、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
(昔と同じ病室だったことには驚いたよね・・・。こんなところから早く連れ出してあげたかった)
俺は眉を寄せてその幼子を見つめる。幼子はずっと窓の外を見ては咳き込み、小さな胸を大きく上下に揺らしていた。
するとガラガラ、と遠慮がちに開く病室の扉。
「こ、こんにちは・・・・」
無音の世界に響くのは子供特有の高い声。俺は声のした方を振り向き苦笑を漏らす。
(・・・あぁ、ほんっとこの頃の俺って餓鬼臭かったんだなぁ)
なんて思っているうちに、トテトテと子供は幼子が横たわるベッドに近づき、笑顔をほころばせた。
「こんにちはミーくん。今日も来ちゃった」
えへへと笑う子供に幼子は苦笑する。そしてゆっくりと口を開いた。
「また来ちゃったんですか?しょうがありませんね。いっくんは僕よりお兄さんなのに」
幼子の声を聞いたとき、体にしびれのような感覚が駆け巡る。俺は口元に手を押さえて、叫びたい衝動に耐えた。
もう、現実では聞くことのない彼の声。幼子の声が優しく自分の名前を呼び、柔らかい笑い声をたてる。
こんな幸せが他にあろうか。俺は流したくもない涙が頬を伝っていくのが気持ち悪くて仕方なかった。
「ねぇミーくん。俺ね、俺・・・」
子供が言いにくそうに顔を俯かせ、歯を食いしばる。そんな子供に幼子は笑った。心からの笑顔で。
「退院、するんですよね。おめでとうございます。良かったじゃないですか、病気が治って」
「でもっ・・・!」
「僕は、いっくんが直ってくれた方が何十倍も何千倍も嬉しいんです。もういっくんが病に苦しむ顔を見なくてすむ」
子供は瞳いっぱいに涙をためて、嗚咽を零しながらミーくんとつぶやいた。
俺は胸が鷲掴みにされた気分を味わう。このときの幼子の笑顔を、言葉を思い出すたびに、苦しくて悲しくて叫び出しそうになる。
「泣かないでいっくん。今度は僕の番です。今度は僕が病気を治して、いっくんに会いに行きますよ」
「本当?ミーくん。ミーくんが会いに来てくれるの?」
「はい、約束です」
俺は思う。もうこのときすでに幼子は解っていたのではないか、と。解っていながら子供を安心させるために、自分より年上の子供をこれ以上心配させないように精一杯虚勢を張っていたのではないかと。
(そう、俺はこのとき本当に思った。今度は彼から会いに来てくれる未来があることを)
「うん・・・!約束だからね!俺、ずっと待ってる!お手紙も書くよ!」
だってそうしないと俺が今どこにいるか解らなくなるからね!と子供は笑う。幼子もつられて笑う。
「はい、待ってます。・・・でも僕手紙を書くことが」
「いいんだよ!ミーくんが元気になって会いに来てくれればそれでいいの!ね!」
「・・・うん、僕絶対にいっくんに会いに行きます」
「うん!」
子供と幼子が笑いながら未来への約束を交わしている。その風景が突然切り替わった。