そこまでの距離
3. 君のせいではないよ
それからは再びなんでもない日々がはじまった。
沢木にとってはどうだか分からないが、とにかく蛍にはなんでもないような、夏休みごろと同じような生活に戻った。つまりはお互いがいないお互いの日常である。ゴスロリ姿を披露する前にも沢木が幾度となく自らのことを思い出したとは、蛍には知る由もなかった。
ただそうやって、日々が流れていく。
「………………」
ちっとも本の中身が頭に入ってこない時間というのは残念ながらある。しかもかなりよくある。そんなとき蛍はやはり学校へ行くべきかと考えるのだが、ほんの一瞬なので結局は目の前の今や文字の羅列にしか思えない場所に視線を落とす。
「少し休んだらどうだね。根の詰め過ぎはよくねェ」
「おじいちゃん」
見上げた老人は相変わらずの笑顔だった。蛍にとっての三人めの祖父は手に白くてつるんとした湯飲みをふたつ持っている。中身は無論日本酒だ。
世間一般では日の出ている間に酒を飲むのは贅沢で背徳的行為だと考えられているらしいが、日吉酒店においてはそれも不要のモラルとされている。酒屋の息子なだけあって蛍は体内にうわばみを飼っているし、ご老人の酒量は元より計り知れない。兄には店番があるから呑むことは少なかったものの一度呑み出せば止まらないと聞いている。そして三人とも呑む量は各々しっかりと考えていたから酔い潰れる心配は全くといってよい程なかった。問題は世間体くらいのものだ。
いつもの通りベンチに積み上がった本とその隣に腰掛ける蛍を見てご隠居はいつも細い目を更に細めた。時間は午後の2時。冬の光がもっとも優しくあたたかい時間帯だ。
「ありがとう、おじいちゃん」
「そいじゃ、この老いぼれも一杯やるとするか」
頷いて蛍のそのまた隣に腰掛ける日吉翁が湯飲みに口をつけるのを確認してからいただきます、と呟く。そうして口にした味に、蛍は脊髄が凍ったかのような感触を覚えて動きを止めた。豊潤でフルーティ。すっきりと口に馴染みやすいまろやかな味には覚えがあった。いや、薫りで気付くべきだったのかもしれない。以前このお酒を飲んだときは、地下だった。
「おじいちゃん、これ」
声を震わせたくなくて、先手を打ちたくて口を開く。しかし蛍はすでに俯いてしまっていたから、たぶん意味はあまりなかった。ゆらゆらと小刻みに揺れる水面はつまり押さえきれない手のひらの震えを意味していたが、表情が映らないのは有り難かった。きっと酷い顔をしているんだろう。それくらい分かっている。
「ん?」
「僕がここにはじめて来たときに、飲ませてくれたお酒でしょう」
僕ら、とはどうしても言えなかった。
*
「あいつ、は」
「ああ」
「いい奴だよ。引っ込み思案……ていうか、内弁慶?うん、それだ。内弁慶で、その割にちょっとキツいこと言えばすぐしゅんってするし、適当だし、髪は勝手に染めるし、その割に眉毛黒かったりする、し」
「ああ」
「でもいい奴だから」
「ああ」
「ずっと、ふたりきりの幼馴染みだったから」
「ああ」
「18年間、ふたりとも結局異端だったんだ。沢木はみんなが見えないものが見えてしまう。だから結局誰の信用も得られなかったし家族にさえ疑われた時期があった。僕はずっと、女みたいだって言われてきた。面と向かってならまだしも、陰口は耐えられたものじゃなかった。お互いにお互いしかいなかった時期があった」
「ああ」
「だけど、今は違う。沢木はちゃんと研究室で居場所を見つけた。だから僕は――引き止めるためだけに、言ったのかもしれない」
「言ったのかい」
「うん」
「そうか、そうか」
「……うん」
優しい手が、頭に乗せられた。
「おじい、ちゃん?」
「18年も熟成してきたんだ。その時間で、もう十分だろう」
「………………」
「沢木くんはお前のことを好きだよ」
「けど、僕は自分で壊そうとしてっ」
「壊れねェよ」
「え」
「おじいちゃんが保証人だ。十八年熟成。日本酒なら大したもんじゃねェか」
「………………」
「けど、一回でも腐らせちまったらそこまでだ」
「………………」
「それともうひとつ」
「………………」
「沢木くんを見くびるんじゃねェ」
*
僕は樹研究室への配達を言いつけられた。どうもわざとらしい気がしてならないのだけれど、とにかく仕事だと思って風呂敷を抱いて歩いているうちにあっさり発酵蔵に到着。まだ授業中だからなのか、ひとっ子ひとりいないのにすこしがっかりして、結局期待を抱いてここまで来てしまったということなのだと気が付いた。何への期待かは自分でもよく分からなかったが。
武藤さんくらいはどこかに潜んでいそうな気がしたけれども、中に入る気にはなれず僕は発酵蔵前の階段のうちの一段にぺたりと腰掛ける。天気はよくて、空が申し分なく青くて、冬の雲は一片も見当たらなかった。曇りの日も寒いが、こんな快晴でも寒いときがある。僕はきちんとケープを羽織ってきたけれど、そのせいで逆にぽかぽかと暑いくらいにあたたかかった。逆に発酵蔵の中には年中日が当たらないし風通りもいいからめちゃくちゃ寒いはずだ。
今は何の授業の時間なんだろうと僕は考えた。数学か、化学か、英語か。それとも実習か。及川さんも一緒にいるに決まっている。彼女の起こした騒ぎを思い出すと純粋な笑みが零れた。
沢木への恋をお互いに同性だからといって悩んだことは一度もない。僕の問題は、それよりももっと深いところにあった。
つまり、沢木が応えないのは当たり前だから、どこまでふたりの18年に傷を付けてしまうのか。
沢木が樹研究室に馴染んだときからその問題は軽減されたはずだった。沢木の前から姿を消したとき、僕は彼が18年を消してしまうことすら望んでいた。そして彼は再び僕を頼ってきた(菌が見えなくなったときだ)が、その内容は研究室内の人間関係についてだった。僕は、彼を独占してしまいたい自分を発見した。
弟分で、親友で、幼馴染みで、すきなひと。
繋ぎ止めるなら最後の選択肢だとも思った。
終わらせるなら最後の選択肢だとも思った。
今でも、そう思っている。
記憶をリプレイする。沢木は言っていたっけ。だから頼むからひとりで悩むな。だけど沢木、手に負えない荷物を僕は弟分に背負わせるわけにはいかない。親友の立場を考えれば口を閉ざすべきで、幼馴染みにはそこまで話す義務も聞く義務もない。
ましてや、それはすきなひと本人についての話、だった。