どしゃ降りの涙♪
避けられたアイリーンは、驚愕で身を強張らせた。
再びのろのろと彼女の手が伸びるが、やはりウェスタはアイリーンの手を、嫌そうに翼をはためかせて払い除け、セイランから離れようとしない。
手を虚空に漂わせたまま、少女はみるみる表情を曇らせた。勝気だった筈の相貌はくしゃりと歪み、今にも大きな蒼い瞳から涙が零れてきそうだ。
「……あんたも、私から離れて行っちゃうの?……」
震えながら紡がれた声、それでもふくろうは彼女を省みもしない。
魅了の術が解けぬ限り、鳥の小さな脳みそは、大切な主も眼中に入らない。
唇を戦慄かせた少女は、やがて歯を食いしばって俯いた。ぎっと拳を握り、全身を怒りと悲しみに小刻みに震わせる。
「――――どこへでも行っちゃえ。馬鹿!!―――――」
くるりと踵を返し、彼女は勢い良く木の扉から飛び出した。外は石をいくつも組んで作った螺旋階段になっている。
彼女は靴音を響かせて、塔の上部に向かって駆け登る。
「アイリーン!!ちょっと!!」
「待ってくれお嬢ちゃん!!」
泣いてしまった少女を見捨てておけず、ヴィエペンギンはどすどす後を追いかけていく。やはり、日々女性に愛を振りまいているオスカーも同様だ。
バイクに跨ったままの親友は、不機嫌を隠しもせず、セイランに冷酷な目を向ける。
「おい、ガキ泣かすのは俺でもカンベンって感じだぜ」
「……子供ね。見かけがそうでも中身までそうだとは限らないだろうに………」
セイランはウェスタを腕に停まらせたまま、ぐるりと周囲を見回した。
どうやらこの部屋は、ふつうなら家族が団欒のため、もしくは来客をもてなす居間のようだ。なのに絨毯は剥がされ、剥き出しになった平木を敷き詰めただけの床一面には魔方陣が描かれている。
ウェスタを捜索したいがために、一時的に使用したとは思えない程、周囲は乱れていた。
無造作に置かれた造りの良い長方形の背の低いテーブル、それと四人は座れる長椅子には、人が来ても座れる隙間もなく、書物や怪しげな実験器具が無造作に積まれている。
部屋の続きにある奥まったスペースは、多分食べ物を調理する筈の台所だろう。
釜戸の火が細々と燃え、大きな鉄なべがかけられているが、匂いも何もしないところから、入っているのは単なるお湯だし、灰もろくに掻き出してないから火も途絶えがちだ。
埃にまみれ蜘蛛の巣のはった食器棚は、綺麗に片付けられているからこそ、使った形跡が全く見られない。
古い由緒ある木材のテーブルは、昔はよく磨かれていたのか綺麗な飴色に焼けていたが、今はうっすらと埃をかぶっている。
ここも手入れがされなかった訳ではない。手入れをしていた者が居なくなり、そしてそのまま放置されたのだろう。
「本当に人の気配がしない。変だ」
「ああ? でもよぉ、極楽ペンギンの奴が、あのガキは一人暮らしだって言ってたじゃねーか」
「違うゼフェル。僕が言いたいのはこの塔に、誰も通っている形跡がないということさ」
保護者に死に別れた少女なら、普通、同じ村人か魔導士ギルドに所属している誰かに引き取られるか、もしくは通いで面倒を見るかだろう。この調度品に術具に本、ちょっと見ただけでも、彼女の保護者はかなり高名な魔術師だと予想できる。文字も読めないものが多い筈のこの世界で、これだけの蔵書を個人で所持しているのだ。高価なガラス器具といい、貧困に苦しんでいるとは思えない。
あえて村人の世話になる必要はなくても、どこにもおせっかいはいる。まめに様子を見に通う世話人はいなくても、金を持つ少女に、親切面して何かを売りにくる行商人はいてもおかしくない。掃除が滞り、埃にまみれた台所の床は、少女の靴跡しか見当たらず、なんの形跡もみられない。
そうこうしているうちに、ぺたぺたと不気味な足音を立て、むっすりと唇を引き結んだ着ぐるみのペンギンが、螺旋階段を降りてきた。
「駄目だわ。完全に怒らせちゃった」
別に何も期待していなかったセイランだが、オリヴィエのほっぺにくっきりとついた手の跡に、思わず声をあげて笑ってしまった。
「よぉ、あのおっさん、何をやらかしたんだ?」
「泣いているあの子を抱きしめてキスしたのよ! 今も手ぇつけられないほど暴れてる」
どうやら彼はオスカーのとばっちり食らったらしい。それを証明するかのように、遠くの方から「出てけ!痴漢!!」と罵声が飛び、物が叩き付けられ、割れて壊れる音が響く。
この時間のない時に、朝までに落とさねばならない勇者候補の機嫌を、更に損ねてどうするのだ?
「……全く、あいつめ……。僕の邪魔ばっかりしやがって……」
セイランは忌々しげにため息をつくと、腰から銃を取り出し親指でオート・ロックを解除した。無言で塔の階段を登りだした彼に、追いすがるように親友が肩を掴む。
「おいセイラン、あんな奴でも一応妖精族の王子だ! 殺すとまずい事になる!!」
「大丈夫だ。あれでもジュリアスの幕僚にいた騎士だ。僕も付き合いは長い……ヤツが簡単にくたばるタマか!!」
ガッと重厚な扉を蹴りあけたと同時に、セイランは赤毛めがけて容赦なく銃をぶっ放した。手に収まる金属の塊が、破裂するような轟音を立てると同時に、火薬が紫煙を立てて燃え、鉛の弾丸が彼を襲う。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
赤毛の騎士は、鎧を着ていて正解だった。
勇者候補の、しかも少女がいる前で、火器など使う筈がないとタカを括っていたオスカーは、全弾左胸に鉛玉を食らい、あお向けに吹っ飛び転がった。
頭を強かに打ちつけた彼は、脳震盪を起こしたのだろう。
いつもなら覇気のある人を馬鹿にしたような氷蒼の目が、死んだ魚のように虚ろに濁っている。
「あんたは妖精だけどさぁ、特別に僕のエリミア宮に送ってやるよ。死んだ勇者の魂と一緒に、誰かが迎えに来るまで、迷宮で化け物と戯れて来い!!」
セイランは、更に制裁を与えるべく、彼に向かって銃を突きつけた。
その、彼の視界に青色のドレスが翻る。
ロザリアは、動かなくなったオスカーの体に身を投げ出し、全身で彼の体に覆い被さった。
「セイラン!! 女にだらしのない人でも私の兄なの!! お願いだから止めて!!」
「……どけ」
「嫌よ!!」
セイランを見上げたロザリアは、目に涙を浮かべつつ、蒼白になりながらも身を震わせ、でもオスカーから離れようとはしない。
セイランの機嫌を損ねた者は、たいてい迷宮の最下層に叩き込まれる。
だが、最下層に送られた勇者の魂で、現世に帰還できたものはない。また危険を承知で勇者の魂を迎えに行った天使達も、途中で諦めて逃げるか、もしくはセイラン憎しで堕天使となっている。
日頃から互いを良く思っていない二人だ。また、今日のオスカーは、疑われてもおかしくない程、程度の低い失敗ばかりを繰り返している。
時間の限界が迫っている今、焦るセイランが、怒りに駆られて本当にオスカーの魂を迷宮に叩き込むのではないかと、ロザリアが危惧するのも無理もない
「あんた止めなよ。そいつがどうにかなっちゃったら、そっちの妹、泣いちゃうでしょ。私だって自分の部屋、血で汚されるのなんてごめんなんだから」