どしゃ降りの涙♪
「……僕も同じだ。僕にも大好きな父がいた。天界で、明けの明星と称えられた、光り輝く一番の天使だ。父の名は、レヴィアス・ルシフェルと言う……」
アイリーンの小さな肩が、ぴくっと震えた。
驚きに泣きじゃくっていた声はすぼみ、のろのろと上げた顔は驚愕でかたまり強張っている。
当たり前だ。
魔導どころか神の存在を信じる者なら、誰でも『ルシフェル』の名前は知っている。
天界の魔逆、魔界の主。
悪魔と呼ばれる魔物全ての王。
「何でも出来て、神にもっとも近いと言われた将来を嘱望されていた天使だった。僕の母は物心つかないときに死んでいたから、僕にとって家族は父だけで、父が全てでとても愛していた」
「………でも、ルシフェルは……」
「ああ。人で言うのなら、僕が7歳の時だ。父が神に反逆し、部下を引き連れて天界から失踪したのは。大した影響力だったと思うよ。なんていったって、その時天界の天使のうち、1/3が父について堕天したんだから」
セイランはマントの留め金を外し、胴着のボタンに手をかけた。襟首を緩めると上着に手をかけ、服を脱ぐ。
上半身だけとはいえ、完全に裸体を曝した彼に、顔を真っ赤にしたアイリーンは悲鳴をあげた。
「何すんの露出狂の変態!!」
「ご覧」
セイランは、シミ一つなかったすべらやかな肌に、抉るように爪を立てる。
途端、ぴしっと音を立て、彼の体を覆うゼフェル特性の擬似皮膚に穴が開く。
それを更に引き裂いて剥ぎ取れば、中から現れたのは、セイランの真実の体。
すべらやかな象牙色の肌に、右肩から臍近くの腰までざっくりと体を断ち割られた傷跡に、アイリーンの喉がひくっと鳴る。
黒く醜い、魔傷の跡。
これは決して消えない。
「父は、何の前触れもなく僕を剣で切り捨てた。奇跡的に一命をとりとめて目覚めたとき、父はもう天界のどこにもいなかった。それどころか僕は、父が神を裏切り、魔物になったと聞かされた。天界最高の天使と言われ、僕の誇りだった愛しい父親に、一体何があった? どうして僕を殺そうとした? 疑問だらけの僕に、答えを言える天使など、誰一人としていなかったよ」
★☆★☆★
8
耳に、肉が断ち割られる音が届いた。
己が体から、勢い良く血が飛沫をたて、飛び散る。
セイランの膝が崩れ、横向きに床に倒れた。
体を割られ、焼け付くような熱さに、声を紡ごうにも喉から零れるのは血泡だけ。
視界が血の色で霞む中、必死で首をねじり、己の身を剣で断ち割った者を仰ぎ見る。
信じられなかった。
そこにあったのは何があっても大丈夫だと、いつもセイランを安心させた微笑。
レヴィアスは幸せそうに微笑んで、セイランを切った血塗れの長剣を手に携えている。
(父上―――――何故?)
天界の住人1/3を連れ、魔界を作り、そこの王となった父に、一体どんな崇高な理想が在ったのかは知らない。
血溜まりに沈みながら想うのは、父に捨てられた絶望、そして疑問。
(どうして? 何故? 何故僕を!!)
命が助かったのは奇跡ではなく、本人の生への執着だ。
だが庇護者を失った7歳の少年に、天界はあまりにも冷酷な世界だった。
☆☆☆
「あ〜、本当に行くのですか?」
「はい」
桜の蕾が開き始め、気だるく暖かな日溜りの気持ち良い朝、小さなスーツケースただ一つを手に、セイランはルヴァ・ラファエルの聖アザリア宮を出ることにした。
『自分の弟と親友だった』ただそれだけの理由で、瀕死の彼を引き取り、また18歳になるまで、後見すると名乗りを挙げてくれた人好きのする柔和な青年の好意を、結局無碍にしてしまったセイランは、一応ぺこりと頭を下げる。
あの、レヴィアス堕天事件から、人の年に換算して僅か1年。
8歳になったセイランは、普通なら16歳で入学する天使軍の士官学校を、最年少記録更新で卒業を果たしていた。
「私は貴方の天使軍入りに、今でも反対なんですがね。貴方は確かにずば抜けて賢い、でもまだ子供なんです。いずれ誰だって大人になるのですから、今は大人に甘えて良い時間だと思いませんか?」
「ならルヴァ様。他にどんな手段がありますか? 僕が本当に知りたいことを、一体誰なら教えてくれるの? 方法は二つしか見つからなかった。こんな傷を負わされても、馬鹿みたいに堕天して、あいつの元にかけつけるか、それとも天使軍に入ってあいつを追い詰めるか。前者は問題外、だったら残った手段は後者だけでしょ?」
―――――父が何故、自分を殺したのか?――――――
その答えを知っているのは、自分を剣で切りつけたレヴィアスただ一人。
「子供の貴方が戦場に出る必要はないじゃないですか。貴方が大人になる前に、誰かがレヴィアスを捕らえるかもしれない。せめて成人するまでお待ちなさい。それからでも入軍は遅くないでしょ? 子供がわざわざ辛い茨の道を歩かなくてもいいのです。ここにいなさい。ゼフェルと一緒に私の元に」
ルヴァの、耳に優しい甘い誘惑も、セイランには関係なかった。
切望するただ一つの問いの答え以外、彼には全てが意味無き物。
「お世話になりました」
優しい手を振りほどき、彼は子供時代を自分で終えた。
☆☆☆
「お前、『レヴィアス・ルシフェルの息子』なんだってな。狡賢い作戦ばかり立てて末恐ろしいガキだと思ってたが、やっと納得いったぜ。戦場はお前の遊び場じゃねーんだ。それとも、力蓄えて、親父の元に馳せ参じるってか?」
セイランは図書室で読んでいた本にしおりを挟み、目を眇め、自分に悪意ある目を向ける、かつて同部隊にいた先輩天使を見上げた。
たった三度の出撃で、セイランは小隊長に昇格にした。8歳の少年が、10人の天使を部下に束ね、一つの隊を任せられる………。やはり過去前例のない人事だ。
だが、セイランに難癖をつけてきた彼は、いまだに一兵士の立場である。
「ええ。僕は『ジュリアス・ミカエルの甥』ですが、それが何か?」
魔界の王となったレヴィアスには、双子の弟がいた。
それがジュリアス・ミカエル。現在の天使軍統括で、全ての天使を取りしきる長である。
双子の兄の地位を継承し、今でこそ光の大天使と称えられ、揺るぎ無き首座の天使であるが、彼とて裏切り者のレヴィアスの弟。
1歩間違えれば、堕天使の疑惑を持たれて閑職に回されて当然の立場だった。
信用は一朝一夕でできるものでなく、また失墜するのは簡単だ。
誰よりも清く正しく凄烈に見せかけねばならない彼に、レヴィアスの息子を庇う余裕などない。
天界で唯一の親戚であるにも関わらず、ジュリアスはセイランを引き取らなかった。それどころか居ない者として無視した。
自分の保身を考えるのなら当たり前の行動だ。
どうでもいい他人の事情など、セイランも関係ないし、ジュリアスがセイランをどう思っているかは知らないが、彼は別に恨みにも思っていない。
ただ、周囲が騒がしくなるのはウザいから、せいぜいジュリアスの名前を勝手に利用させてもらうだけだ。
「あれが裏切り者レヴィアス・ルシフェルの子だ」と。
――――墜天使の王の息子―――――
――――いつかきっと墜ちる―――――