どしゃ降りの涙♪
「ねえアイリーン、君は天界が純粋で清らかな世界だと思うかい?」
アイリーンは、口元に微笑を浮かべつつも、ふるふると首を横に振った。
そんな彼女に、セイランも穏やかな微笑で答える。
「そう。魔族の大半は元天使だ。天使は簡単に墜天する、心がもろい種族だからね。天界は規律と規範でがんじがらめにしてようやく天使をまとめ上げている。決められた規則を破ればすぐに監視が付くし、密告は大いに奨励され、友人や親しい仲間でも、裏切りは日常茶飯事に行われている」
クラヴィス・ウリエル配下となったセイランだったが、父と決別して抜け殻となった自分をそっとしておいてくれる程、天界は彼に優しくなかった。
レヴィアスに執着していたセイランにとって、父親との再会が人生の全てだった。
その目的を果たし終え、父親を自分が見限り、過去と決別してしまった瞬間、彼は生きる目的を失った。
そんな単純な理由なのに、セイランに近づく奴らは口先だけのどうでも良い慰めを与えるふりをし、ことごとく傷口に塩をぬりこむようにレヴィアスを取り逃がした件を蒸し返し、本当に裏切る意志はないのかと、痛くない腹を探ってくる。
何もかもが煩かった。そっとしておいて欲しかった。
気が狂いそうだった。
いっそ発狂できたらどれだけ楽だっただろう。
彼に新たに与えられた仕事は、魔物に討たれた勇者の魂を、10日以内に担当天使が来るまでエミリア宮で預かったり、薬を適当に部下に調合させて、分けてくれと願う天使に配るという、今まで魔軍と命のやり取りをしていた身には簡単なものだった。
日々ぼーっと惚けながら、黙々と事務処理を行っていたが、そのうちこの宮殿に訪れる天使は、ほぼ確実に何度でも現れてセイランの手を煩わせることに気づいた。
――――馬鹿な天使はいとも簡単に、己の采配ミスで、何度も自分が選んだ勇者を殺す――――
(この、無能者ども!!)
段々と、そんな愚かな天使が目障りになってきた。
父に切られ《死》を実際に体験した自分だから知っている。四肢が動かず、血とともに体温が奪われ、気が遠くなり、自分自身が消えていくかのようなあの恐怖、セイラン自身ですら二度と経験したくないと思う。なのに天使は、己の采配ミスで殺してしまった勇者に、その怖さを克服して『また戦え』と軽々しく命じている。
天使は地上を見守るのが役目で、世界を救うのはその地に住む人間…勇者の役割、それが天界が決めた掟。
だからって『ここはお前の世界なのだから、救いたいのなら戦え』と、そう気軽に強いるのは、間違いだ。
いくら天使が直で異界に介入するのがタブーだとしても、所詮他人事だ。守護してきただけの天使では、勇者の死の恐怖などわからないだろう。
セイラン自身、レヴィアスの割られた肩の傷は、人工の皮膚で覆って隠している。
他人の目には見ることができなくても、自分は体に惨い魔傷がある事を知っている。
殺された痛みと恐怖、心に負った深い傷は、一生消えることはない。
「奇麗事を並べて勇者にしておきながら、天使はいとも簡単に勇者を守りきれずに殺す。
己の力不足を反省せず、勇者の魂を迎えに来た事で自分の采配ミスがチャラになると思っている、めでたい天使達だ。そんなたわけた奴らがとことこ迎えに来たからって、ただ彼ら勇者を引き渡したんじゃ、命がけで戦った勇者達が気の毒と思わないかい?」
だからセイランは勇者の魂の保管庫を、迷宮に作り変えた。
地獄を習って階層も9つに区切り、下の階に行けば行くほど、文字通りに自分自身の身が危険に晒され、殺されかねない勢いの恐怖を味わえるように、徹底的に趣向を凝らした。
「勇者たちの味わった何分の一でもいいから、身を切られる恐怖を味わえ!!」と、無音、凍土、業火等、化け物が平気で闊歩する世界を作り上げた。
魔物に殺されてしまった勇者の魂は、セイランのエミリア宮に送られる。彼はそれら魂を迷宮の階層に振り分けて、後は知らん振りを決め込んだ。
10日以内に迷宮から己の勇者の魂を探し当てねば、セイランの手により、勇者は本当に死者達が行くあの世に送られてしまう。
もし己の勇者を一人完全に失えば、天使達は自分が派遣された地で新たな勇者を見つけ、それらを育てねばならないのだ。その手間隙を考えれば、例え己の身が危険に晒されると判っていても、保管されている勇者の魂を迎えに迷宮に入るしかない。
10日以内に見つけねばならないという、時間の制限も天使を焦らせる要因だ。
時間の感覚も分からない世界で、何日もさ迷い歩けば、天使という清らかな仮面で取り繕っていた化けの皮も剥がれ、個人の持つ本性が浮き彫りになる。
≪なんで俺がこんな目に合わねばならない!!≫
≪セイランめ……馬鹿野郎!!≫
毒づくだけで、セイランを逆恨みする天使なら、まだ可愛げがある。
勇者の魂を探すのをさっさと諦め、迷宮を脱出したその足で、ジュリアスやクラヴィスの下に告げ口に行く天使もいた。
喪に服し、引きこもったクラヴィスは、そんな馬鹿達に傾ける耳は無かったが、正義の名の元に、規律を重んじるジュリアスは、その都度セイランに呼び出しをかけてきた。
使者を侮蔑と毒舌で一切反論できないほど徹底的にいたぶって、「用があるならあんたが来い」と、無視を決め込んだセイランには関係無い話だが。
だが、何よりも信じられなかったのは……自分自身が迷宮で迷ってしまい、出口を見つけられなくなった時、セイランに「助けてくれ〜!」と泣き喚いて救出を懇願する天使が続出した事だ。
セイランが作り出した迷宮は芸術品だ。複雑怪奇で一度入ったら、易々とは戻れない造りなのは認めよう。
だが、救済措置はしっかりと施してある。
己の守護する勇者の魂を見つければ、眠っていた勇者は目覚め、己の本来いる世界に戻るのだ。彼らはどんな階層に放り込まれても、目覚めれば自然に正確に迷宮の出口を把握できる。だから天使も、己が見つけた勇者と一緒に帰れば、迷わず抜け出ることができる筈だ。
それなのに……何が「助けてくれ」? 自分の力不足で勇者を殺しておきながら、自分だけ助けを求めるなんて。
己の不手際で死んでしまった勇者達は、迷宮の中で自分の守護天使が迎えが来るのを、信じて眠りながら待っているというのに。
だからセイランは、そんな風に懇願する天使達を無視した挙句、守護する勇者の魂を、即座にコチトを模した最下層に移し変えた。
そんな身勝手な天使を信じ、今後もこき使われる勇者達の方が気の毒だ。
薄情な馬鹿の管理下に置かれ、何度も『死』という辛い目に合わせるよりは、魂を安全な使者の世界に旅立たせた方がましだ。
そんなある日、【彼女】は来た。
どだだだだだだだだと、けたたましくセイランの執務室のドアがノックされ、彼の了承も得ないうちに、バタンと荒々しく扉が開く。
「す、すいません!! インフォスという世界から、シーヴァスっていう勇者の魂がこっちにきている筈なんですけれど!!」
少女はぱたぱたと小さな翼をはためかせ、セイランに体当たりしそうな勢いで飛んできた。