どしゃ降りの涙♪
アンジェは雄々しく立ち上がると、エクレシア教国目指し、翼をぱたぱたはためかせて飛んだ。
だが、彼女は究極の方向音痴だ。オリヴィエという道標がいない今、願った場所にまともに行ける筈がなかった。
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10
伝説の勇者の一人、僧侶エリアスが興した聖なる国【エクレシア教国】は、天竜(サタン)の復活を阻む為に、1000年間もの間、宗教で人心を纏め上げた統一国家だ。
国を統べる『教皇』は、民が選ぶのでも世襲でもない。
生まれつき、触れるだけで傷を癒すことのできる力『癒しの手』を、神から授けられた者だけが至高の地位につく。だが、そんな祝福を持つものはここ数十年現れず、この国の教皇は長いこと空席だった。
アンジェの勇者候補であるロクスは、エクレシア教国にとって、将来『教皇』の座につくことが約束された、待望の『癒しの手』を持つ青年だった。
首都アララスに舞い降りたセイラン達は、早速勇者候補と接触を試みるべく、ゼフェルが彼を見かけた酒場に向かった。だが、酒気と博打、そして金を持つ男に侍る娼婦達の、仮初の愛憎に乱れたいかがわしい空間に、銀糸の髪を持つ青年の姿はなかった。
「ゼフェル、君さっき、ロクスをここで見たんだよね?」
「ああ、そこのカウンターで、女を10人ぐらい侍らせて喜んでたけどよ」
「……それもどうかと思うけどさ………。いいさ、もし今そいつがどっかの宿屋で娼婦達と、ハーレム状態のままベッドで乱交しているのなら、ロザリアをバイクに隔離してからその宿屋を焼き討ちすればいい……」
「おめー、そいつ、そこまでして欲しい勇者か?」
「僕に聞くな」
セイランは、大きくため息をついた。
正直な所、そんな不健全な男など、最愛かつ純真なアンジェの傍に近づけたくない。なんせ無邪気な彼女は愛らしい。いつ甘い言葉を囁く男に騙されて、ぱっくり美味しく食べられてしまうかもという不安がむくむく心に沸いてくる。
≪………待て!! 負けた金は必ず返す!!……≫
突如、店の外から男の甲高い声が耳に届くが、セイランは別に気にもとめなかった。金銭のトラブルなど、こんな場末では、何処にでもあることだ。
だが、ぱたぱたと透ける背の羽根をはためかせ、小さい手の平サイズになったロザリアが、蒼白になって彼ら二人の元に飛んできた。
「セイラン!! ロクスが路地裏に連れていかれましたわ!!」
「はぁ?」
☆☆
「明日の朝、大聖堂まで来てくれたら、必ず払うから!!」
酒場の裏口でゴロツキと呼ばれる逞しいお兄さん達に囲まれ、襟首を引っ掴まれて吊り上げられている男は、本来なら国民の為に神に祈る筈のその両手を組み、取りたて人に対し、涙を流さん勢いで頭を何度も下げて哀願している。
彼が身に纏っている、高貴さを示す紫の衣がいっそ滑稽だ。
「なぁセイラン、あいつホントにボウズ? 実はアンジェの勘違いで、そっくりな赤の他人っつーオチなんじゃねーの?」
気配を消し、建物の影に隠れたゼフェルは、ゴーグルをくるくると指で弄びながら、呆れたように目を眇める。
その横に立つセイラン自身も、本心から幼馴染の意見に一票を投じたい気分だ。
「……ゼフェル、言っとくけれど僕のアンジェがあいつを選んだ訳じゃない。勇者の人選は神の意志だ。そうだよね、ロザリア?……」
「ええ。私も信じたくないけど、あれでも本当に将来の教皇で、アンジェの勇者候補ですわ」
近い将来、一国の主になる予定の男が、借金取りに必死で哀願する姿は情けない。
しかも奴は、『金は明日大聖堂に取りに来い』と平気で言い放ったのだ。奴らに支払われるものはきっと、民があくせく働いて、国に収めた血税だろう。
これでいいのかエクレシアの国民?
「僕だったら、こんな奴を税金で養っているなんて真実を知ったら、いくら悲願の教皇様でも、確実に血祭りだろうね………、ふーっ、おい、そこの君達。僕らもそいつに話がある。悪いがこれで交渉権を先に譲ってくれないか?」
セイランは建物の影からすうっと姿を現し、自分の長衣の袖を纏めていた右手の腕輪を一つ引き抜くと、ゴロツキめがけて緩やかに放り投げた。
純金に、一級品のエメラルドとサファイアを大量に嵌め込み、白百合と一角獣が形取られた品は、セイラン手作りの細工物だ。天界でも垂涎の的となっている宝飾品は、物の品定めに疎い身を持ち崩した男達にとっても、一目で計り知れない価値を推測できる品だった。
彼らは一斉に、それを惜しげもなく放って寄越した男を見た。
セイランの首に巻かれたチョーカー、そしてもう片方の腕輪にも同等の価値を見出し、もとたかろうと思ったのか、己の腰の長剣を弄る男もいる。だが、建物の影からのっそりと姿を現したオスカーとヴィクトール、そしてペンギンの着ぐるみを着たオリヴィエを見て、直ぐに彼らは怯んで大人しくなった。
「……よ、よし。明日の朝一番に大聖堂に行く。金貨3000枚、耳を揃えて準備しておけ……」
ゴロツキのリーダー格の男が、そうロクスに言い放つ。
セイランはそれを、目を眇めて見ていた。
金貨1枚あれば、アルカヤの貧しい5人家族は1週間暮らせる。
金貨30枚あれば、畑の鋤を引く駄馬が1頭買える。
金貨100枚あれば、都市部の家賃が一年賄える。
なのに3000枚もの金貨を、たった一晩で負けてしまうなど、この男は一体どういう賭け事に手を出したのか?
ましてやセイラン達に助けられた分際で、ロクスはオリヴィエを見つけた途端、露骨に眉を顰めて睨みつけてきた。
「お前もホントしつこいな。私は勇者になんてならないって言ったろ?」
ここまで舐めた態度を取る男なら、普通だったら今頃、とっくに半殺しな目に合わせて、簀巻きにした上、川に捨てているだろう。
だが、アンジェのためだと思うから、セイランは内心燻っている怒りを隠し、涼しい顔を浮かべ、左手に残っている繊細な細工品を見せびらかしながら笑った。
「なら僕と賭けをしない? 君が勝ったら金貨3000枚は僕が払ってやる。その代わり君が負けたらアンジェの勇者を承諾する」
ロクスもにやりと笑った。
「精錬潔白な天使様が、博打か?」
「僕らも必死なんでね。君の興味を引く為なら、普通の『お願い』では無理だと学習したんだよ。勿論、不払いとかは心配しなくていい。天界は宝物の宝庫だ。この程度の宝飾品なら、僕の宮殿だけでも、ゴロゴロ転がっている」
セイランは左手の腕輪をするりと外し、緩やかな弧を描いてロクスに放った。
受け取った彼は、流石幼い頃から贅沢に育てられただけはある。その宝飾品が紛い物どころか、きちんとした店で売れば、これ一つだけで、楽に金貨3000枚以上価値を見出せると理解した途端、にやりと口元を歪めて笑った。
「……僕の行き付けの店で勝負だ……」
馴染みの店なら、いかさまもし放題という所だろう。そして、セイランをカモにして、彼や彼の仲間が持っている金目の宝飾品を根こそぎ貰おうという腹づもりだ。
ロクスの暗喩に気づかないふりをし、セイランは純真な天使のふりしてにっこり頷いた。
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