どしゃ降りの涙♪
目が虚となったゾンビに表情はない。だが生命あるものを羨み、その心臓を欲する彼らには、明確な執念を感じる。逃げようとしたが駄目だった。彼女の両足は、何時の間にか地面から突き出た冷たい手に捕まれていたのだ。振りほどこうと足をぱたぱた動かしても、幼い足ではびくともしない。
セイランの悪意満載な迷宮で、多少怪物に慣れていた彼女だが、生憎アルカヤは人が支配する土地だ。オリヴィエやロザリア達妖精は、自由気ままに人ですら殺すことが可能だが、天使はさまざまな制約に縛られている。彼女達は人に力を貸すことは許されていても、勝手に化け物を退治することは認められていない。自分の体に一太刀でも傷を負い、初めて正当防衛の攻撃が認められるのだ。
彼らのうち誰からでもいい、体に傷を一つ貰えば天使の力の使用が認められる。律儀に天界の規則を守るため、アンジェは怖さにガタガタ身を震わせ、涙一杯の目を強く瞑った。
馬鹿である。
もしこの場にセイランがいれば、きっと目を剥いて『戦場を知らず、建前でしか物の言えないディア・ガブリエルの言い分など、聞く君の神経も疑うね。死にたければどうぞ。その代わり、僕は君を殺した世界を徹底的に復讐しつくしてから後を追うから。アルカヤと天界も滅ぼすよ、それでもいいならやれば?』と、怒鳴り散らしたであろう。
体にたった一つ傷を負うことが、首を飛ばされたり心臓を抉られたりして致命傷となる場合だってあるのに、殺意を持つ者の前で、無防備に目を瞑るなどあってはならないこと。
大柄な男だったものが、長く尖った獣のような爪で、アンジェの白い衣の襟首を鷲掴む。
空中に猫の仔のように軽々と吊り上げられた彼女の心臓をめがけ、もう片方の爪だらけの腕が、アンジェの胸元を服ごと切り裂いた。
「……きゃああああっ……!!」
致命傷にはならなかったが、堪えきれない痛みに、彼女の口から絶叫が迸った。
死人がアンジェの胸にある心臓を抉ろうと、ますます腕を振り上げる。彼女は咄嗟に聖なる光で自らの体を包みこんだ。
暖かく輝く聖なる光は、アンデッドの一番恐れるもの。実際、アンジェの体を裂いた化け物は、瞬時に灰となって消滅した。
再び地面に激突したアンジェは、痛さに蠢きながら身を起こし、傷を負い熱くなった胸を手で押さえた。横に走る五つの爪痕からは、ナイフで裂かれたように止め処もなくなく鮮血が滴り落ちる。
涙が溢れて視界を妨げ、とても戦うどころではない。
アンジェを欲し、でも聖なる光に近づけないアンデッド達は、彼女を中心に円状になって光が消滅するのを待っている。アンジェはえくえくしゃくりあげながら、腰に吊るして持ってきた薬袋を引っ張り出し、かつてセイランがくれた回復薬、ポーションを1瓶飲み干した。
夜明けまで後3時間足らず。
そしてアンデッド達は朝の光を浴びると灰になる。
薬が細胞を活性化させ、傷口の肉がじわじわゆっくりと盛り上がりだす。ポーションは睡眠動因効果も高い。アンジェはこのまま、傷口がふさがるまで眠って朝日を待とうかと思ったが、墓場のど真ん中で丸くなるのは流石に嫌だ。
結局寝心地の良い草地か木の根元を求め、うとうとしつつもふらふらと歩き始めた。
だが、墓石の間をほんの10歩彼女が進んだその先に、数十匹のゾンビに囲まれながらも一人で刀を振るい戦う、漆黒の髪、青い衣を纏う青年を見つけた。
「え? あれれ? あれ〜??」
寝ぼけ眼を何度もくしくし擦った。でも、アンジェに見間違う筈がなかった。
彼は自分の勇者候補、バンパイア・ハンターのクライヴだ。仕事中なのか、彼は額から血を流し、今にも崩れそうな体を叱咤して、息絶え絶えになりながら剣を振るっている。
「きゃううううう!!」
彼の危機を見つけた途端、アンジェの眠気は何処かに吹っ飛んだ。
直ぐにぱたぱたと小さな翼をはためかせ、彼の頭上に辿りつく。
「聖なる祝福を彼に!! ホーリー!!」
自らの胸の前で、両手の中に光を蓄え、それをクライヴの持つ剣に宿す。
青白い刀身が、たちまち柔らかな温かみのある陽光に包まれた。今まで首を刎ねなければ散らなかったアンデッド達は、聖光を宿した剣がほんの少し掠るだけで灰になる。
囲まれていたクライヴは、直ぐに危機を脱することができた。そして、みるみるうちに、ゾンビ達を一掃してしまう。
すべてを切り捨て終わり、剣を大地に突き立てて息を整えているクライヴの傍に、空に逃げていたアンジェはぱたぱたと舞い降りるつもりだった。
だがほっとした途端、薬が体を駆け巡っていたのを思い出したようだ。
意識が半分夢の中に旅立っており、かつ聖なる光を集めた彼女は、自分でも思っていた以上に疲労していたようだ。翼を上手に動かしていたつもりでも、実際はみるみる羽音が噛み合わなくなる。
「……うきゃう!!……」
結局失速して顔面から大地に落ちた。
「おい、大丈夫か!!」
馬車の轍に踏み潰されたヒキガエルのように、うつぶせて倒れている彼女を、クライヴは慌てて抱き起こしてくれた。
いくらクールな彼でも、自分を加勢してくれた直後に墜落した見た目4〜5歳の幼い少女を、見捨てる程非道ではなかったようだ。
だが、アンジェの体を見るなり、クライヴは何故か息を呑んだ。
「……酷いな、これは……」
(…ほえ?……)
アンジェは小首を傾げつつ、クライヴの視線を追って、自分の胸元に目を向けた。
(あううううううう!!)
惨たらしく獣の爪に引き裂かれ、白い衣は鮮血で染まっていた。しかもここに来るまでに、散々道に迷った上、大樹に顔から突っ込んで傷ついたり等、服もあちこち汚れてみすぼらしく、また柔らかな手足も擦り傷だらけである。
「鳥もどきの妖精はどうした?」
一瞬誰だろうと思ったが、この大陸にペンギンはいない。正体不明な生物の着ぐるみを着用したオリヴィエは、クライヴには不思議な鳥の姿に見えたのだろう。
「えっと…えっと、今日は別の勇者候補さんの所に頼みに行ってて……」
「……じゃ、お前は?……」
「えっと…えっと……、私は別行動だけど、勇者候補さんにお願いに……」
「そうか、判った」
クライヴはゾンビを切り裂いた刀の刃を布で拭い、鞘に収めた。
「俺にはやるべき仕事があるから、お前の無理はあまり聞けない。それでもいいな?……って、おい何をする!!」
アンジェは咄嗟に、クライヴのほっぺたを、むにっと引っ掴んでいた。
彼にはあまり贅肉がないから、ちょっとしかつまめなかったが、きゅっと指を捻ると確かに痛そうに顔を顰めている。
途端、アンジェは胸が一杯になり、みるみる涙ぐんだ。
「……夢じゃない……、クライヴ、本当に私の勇者になってくれるの……?」
「あ、ああ。だが泣くほどのことか?」
アンジェは夢中になって、こくこく首を縦に振った。
「だって、アルカヤに来て初めてだもん。アンジェの勇者になってくれたのって……クライヴが最初なんだもん!!」
天使が加護を与えられるのは、己の【勇者】のみ。
魔族が闊歩するアルカヤ大陸で、なす術もなく殺される民を見て、アンジェはどんなに歯がゆく思っただろう。これからは勇者に仕事を頼むことができる。