どしゃ降りの涙♪
耳に聞こえる女のすすり泣く声、怨嗟に満ちた化物の断末魔の叫び声。
それが自分の居場所、そのどちらかしか選択枝はないと思っていた。
人間も吸血鬼も信じられない。
母の暖かなぬくもりなど知らない。犬も猫も鳥ですら、クライヴが触れようとすれば、脅えて逃げる。
なのにこの子だけは……、自分に手を差し伸べた。
ぺっとりと小さな塊が、クライヴの腕の中ですやすやと眠っている。
この暖かで、小さくて丸い、可愛い天使に心が癒される。
――――天使の勇者――――
それが、行き場のなかったクライヴに与えられた、心休まる居場所。
☆彡☆彡
クライヴは、うとうととまどろみながら、己の腕に抱いている天使の髪を優しく掻き撫でた。
春の陽だまりを彷彿させる、ふわふわな金髪はぽわぽわと温かく、一度触れてみたいと憧れていた仔猫とはこんな感じなのかと笑みを零した。
自分の傍らに命がある、それが妙に嬉しくてくすぐったい。
ふと、彼の腕の中のぬくもりが、急にずしりと重くなった。
ぼんやりと眠りの淵にいる彼に、まるで水面から響くような、遠くの方で誰かがえくえくとすすり泣いている声がおぼろげに響いてくる。
日が完全に昇れば朝だ。
クライヴには寝る時間だが、普通の人間なら腹を空かせて起き上がり、朝ごはんをほお張っている頃だ。
(……腹を空かせたのか……?)
一体誰がなどと、眠気で鈍くなった頭で考えるまでもない。今ここにはおチビな天使しかいない。
(………天使は、一体何を食べるんだ……?)
4〜5歳の育ち盛りの子供なら……ミルク? いや、それだけでは腹が持つまい。
このまま眠ってしまいたかったが、クライヴは意志でねじ伏せ、目を擦りながら身を起こした。
この家に、子供が食べられそうなものはない。ましてや年の殆どを凍土に覆われた土地に、育つ作物は希少である。アルカヤ大陸ではどこも主食はパンだが、この辺は丸ごと塩で茹でたジャガイモと、自分で狩って作る干し肉か油で漬けた魚だ。
どちらも腹に重すぎる。砂糖菓子でできたようなチビ天使には、キツイメニューだろう。
(イモを摩り下ろして小麦粉と混ぜて練って……焼いて作る餅なら柔らかいか。後、先日農家から貰った牛の乳があったな。蜂蜜と混ぜれば甘い…)
クライヴの顔は無表情だったが、内心は仔猫に初めて餌をやる飼い主の気分だ。
天使が嬉しそうに目を細めて食べる姿が脳裏に浮かべば、知らず胸がわくわくとときめいてくる。彼は日の光に重たくなった体を、大きく伸ばした。
途端、鼻腔を擽る鉄錆の匂いに愁眉する。
おまけに、目を擦った時に、指に何かしっとり冷たいものがへばりついていたのか、顔が濡れている。
(……何だ?……)
眉を顰めながら手の平を覗き込む。
すると、天使を撫でていたクライヴの右手の平は、べったりと真っ赤な血で染まっていた。
「な…!!」
クライヴはエビのように飛び起き、己が抱いていた天使を見おろした。
「……痛い……、痛いよぉ……、えっえっえっ!!」
絶句した彼の目の前にいるのは、もう幼子ではなかった。
17歳ぐらいの美しい少女に成長した天使は、クライヴが上半身へ巻いてやった包帯がきゅっと締まり、縄のように傷口に食い込んでいる。そのため、ゾンビの爪に裂かれた傷が、再びぱっくりと裂けて血が流れていた。
「ま……、待っていろ!!」
クライヴはすぐさまベッドから転がり落ちると、床に置いてあった愛用の剣を抜いた。
今の彼では気が動転して、ナイフを探す余裕すらなかったのだ。
きゅうきゅうに締まってしまった包帯を裂くために、ピタリと刃をあてがうと、天使は更に手足をパタつかせた。
「……痛い、痛い、痛い、痛い……!!」
「…う、動くな!! 頼む……」
いっそ、彼女を抱えて隣家に助けを求めようかとも思ったが、外を見れば、雪に日の光が反射して、眩い程照り返している。
これでは、外に一歩出た途端、クライヴは動けなくなってしまう。
せめて曇りだったら…と、臍を噛むが、やれないことでうだうだ悩んでいる場合ではない。
自分に居場所をくれた天使の一大事だ。家にある薬草のありったけをかき集めても、手当てしてやらねばならない。
「少し我慢してくれ、傷つけたくない」
クライヴはアンジェをうつ伏せると、血が流れていない左肩を膝で押さえつけ、暴れている右肩を左手で引っつかんだ。
ゾンビを貫く刃は鋭い、下手したら肉までばっさりと切り落としてしまう。
「……ふぇぇ、えっえっ…父様ぁ……父様ぁ……」
傷口が下になり、さぞかし傷むのだろう。すすり泣く声がますます甲高くなる。だが、締め付けている包帯を解くのが先だ。
彼は泣きじゃくるアンジェにのしかかったまま、赤く汚れた布に、再び刃の先をあてがった。
そんな時だった。
ぶぅぅんと耳障りな蟲の羽音が届き、銀色に輝く巨大な橇もどきが、クライヴの一間しかない部屋に出現したのは。
異変に気づき振り向いた彼は、その見慣れぬ不思議な浮いている乗り物の中に、見知った被り物を着ている妖精を見つけ、顔を輝かせた。
「おい、そこのペンギン妖精!! お前の天使が………」
「貴様、一体何をやっている!!」
クライヴの助けを求める声を遮り、青紫色の髪を振り乱した美貌の男が、腰から黒く冷たい金属の塊らしき武器を引き抜いた。
ハンターの勘で命の危険を感じた彼は、咄嗟にベッド下に身を隠す。
「よくも僕のアンジェを……、くたばれこの強姦魔!!」
悲痛な絶叫とともに、落雷のような轟音が轟く。同時に木製の簡素なベッドが、金属の弾に抉られて穴だらけとなる。
クライヴはこくりと息を呑んだ。
飛距離といい、威力といい、とてつもない殺傷力だ。一つでもこの身に浴びればただでは済むまい。
「誤解だお前達、俺の話を聞け!!」
返答は鉛弾の雨だった。床を転がって難を逃れたクライヴだが、いつまでもこのままでは持つまい。駄目でもともとという気持ちで、もう一度声を張り上げて叫んだ。
「……俺はただ、怪我した彼女を手当てしてただけ……」
彼の逃げ惑いつつの微かな声など、所詮銃器の破裂音にかき消されてしまう。
ベッドの上では、いち早く橇から飛び降りた、同世代の少女と漆黒の髪を持つ長身の男が、泣き叫ぶ天使を抱き起こしたところだ。
「あっちいってて、邪魔よ!!」
「私の娘の裸を見れば、ジャハナに生きながら叩き込むぞ!!」
最悪だ。
行き場にあぶれた男たちの怒りの矛先の行き場は、自分の元しかない。
家の外は日が昇っていて、何処にも逃げ場はない。
自分の口下手を十二分に自覚していたクライヴは、大きくため息をつきながら、握っていた刀をしっかりと構えなおした。
☆彡☆彡☆彡
血が上ったセイランが、気前よく銃をぶっ放す。
オリヴィエもオスカーも、ゼフェルも、エルンストですら卑劣な女の敵に対し、拳を振り上げて殴りかかりに行く。
「「アンジェ!!」」
「……、痛いよ〜!!」
えぐえぐとすすり泣く愛娘の元に、まっしぐらに駆け寄ったのはクラヴィスだった。だが、追い越したロザリアが、クライヴにピンヒールでキックをかまして親友を抱き締める。