世界の終末で、蛇が見る夢。
糸を解くように両脚の形が崩れ、崩れる端から再び編み上げられてひとつになっていく。
ナーギ、メリュジーヌ、人魚姫、ジョカ。
とっさに半人半獣…蛇と女の合成した幻獣やら妖怪やらの名前が並ぶ。だが彼女の背後から現れたモノは、その何れとも似て異なる大きな――蛇。まるで壁、まるでこの世の全てを飲み尽くすようだ。
『逢魔が時』のかすかな光が、その光をも飲み込むような闇の『いきもの』の輪郭を映し出す。おもむろに不気味なほどに鮮やかなピンク色が闇を切り裂いた。その中央を赤絨毯の道が延びて…そこが口腔であり、舌なのだと知った。その道の中程から細長い触覚のようなモノが伸びて――先端は彼女に繋がっていた。
そんな。そんな、馬鹿な。
見たことが信じられずに俺は立ち尽くす。
「鵺野、せんせい」
「薔子さん!」
「! い、ゃ!」
差し伸べられた手をとっさに左手で掴むと、彼女は反射的に振りほどいた。…なんだ、いまの。一瞬の接触で伝わった、断片的ながら怖気を催すおびただしい情報は。
「……夢じゃ、なかった」
「え?」
「夢なんかじゃなかった、夢なんかじゃ!」
パニックに陥って叫んでいる彼女と、たった今振り解かれた左手を交互に見る。同じモノを見たのか? 地中深くにいるあの蛇を。貴方の顔で人を喰らう蛇の姿を。
「助け、て」
彼女が恐ろしさに身を縮め、涙にむせびながら助けを求めている。その声に差し伸ばした左手は、明らかになった禍々しい気配に刺激され、押さえつけられた不満を表すかのように引きつり、隙あらば封印をやぶろうとあがいている。それを精神力と呪とでねじ伏せた。
一度は退いた足を、今にも逃げ出そうとする足を動かし、おぞましい蛇を押しのけて彼女に寄り添う。
すがりつくしなやかな体。ああ――再び触れて、抱きしめて…そうして納得した。彼女は、彼女もあの蛇の一部なのだと。けれど…
俺の知る彼女は、普通の人だった。
普通に人を愛し、怪異を怖がったり、悩んだり、笑ったり――それが本体にとっての餌を得るための手段? 彼女という自我(個性)など無視して? そんな役割をさせられて。餌として…仕立てられて。
哀れだ。
あやかしの心を持たず、持たされず。知らずに宿命だけを背負わされた存在。餌を求める本能を、巧みに異性へ向ける思慕にすり替えられて。
本体にとっては、人間(えさ)を効率よく得るためのただの飾り。より良い効率を求めた末に産み出された、独自に進化してしまった付属品。奇しくも犠牲となった人間たちの感情が、記憶が、《彼女》を育んだ。
偽りであれ人としての感情を得てしまった事が不幸の始まりだったとでもいうのか? 彼女が繰り返し見たという蛇の夢。あれは、隠れた願望や欲求の暗示などではなく、彼女にとって紛う方なき事実だった。彼女は実際に現実に蛇となって交わり、喰らってきたのだ。現実との齟齬を生じないよう巧妙に『夢』と差し替えられて。
「鵺野、先生」
哀れだ。こんなにも、あなたはあなたなのに。
俺を呼ぶ、華奢なからだを、力を込めて抱き締める。
――守らねばならない存在。けれど同時に倒さねばならない相手、だなんて。
彼女の、あるいは自分の運命を呪う。
差し替えられる記憶が誤魔化しようのないところまできてしまったというのか。否、きっとそれだけ彼女が限りなく人間になっていた所為で――。
「教えてください、先生…鳴介さん。…あなた、を…好きだと……愛しいと…思った…この気持ちは、仕向けられたもの? 作られたもの? ――じゃあ、今まで付き合ってきたひとたちは……あの人、行人さんは、あの人は私が? 私は、わたし――ばけもの、なの?」
人間じゃあ、ないと…いうの?
(――妖怪は しあわせには なれない の?)
氷色の瞳が、涙にくれながら訴えたことを、唐突に思い出す。
(友達を喰べてまで、生きていたくは ない――!)
そしてあまりにも純真で無邪気すぎた、蜘蛛の少女のことを。
あのときも、あのときも。俺は何もできなかった。抱きしめて、ただ抱きしめて、送り出してやるくらいしか。
「いいえ! 違う…違う、あなたは化け物なんかでは…ない。俺は、俺には判る、あなたの感情は、想いは、あなたのものだ…!!」
必死になって言いつのりながら、俺は、頭の何処か冷徹な部分でこの蛇を倒す算段をしていた。それでいて彼女に手を下すことが出来ないでいた。言っていることと、しようとしていることの、この矛盾。やらなければ殺られるというのに。それでも、泣いているこの女性を俺は、抱きしめてあげたいと思っている。恐いことはなにもないのだと、悪い奴はみんな自分がやっつけてあげるから、と。
だけどこのまま、犠牲者が出るのを放ってはおけない。だけど…。
哀れだ。残酷だ。酷い話だ。こんな…こんなことって。《彼女》は何一つ悪いことなどしていないのに。
何が守ってあげるだ、助けてあげるだ。自分の愚かさときたら…嗤うしかない。
「…キス、して……おねが、い」
《彼女》の体が崩れていく。人の形をなくしていく。人がつたない手つきで編み、またほどいていくように、分裂しながら足元の赤黒い肉塊に埋もれていく。膝から太腿へ、そして今はなだらかな腰へと、時折抗いながらも融合は進んでいく。
「鳴介、さん」
意のままにならない両の腕を伸ばして、彼女が俺の名前を呼び、くちづけをせがむ。
俺には何もできないのに。
頼りない腕を自分の首に回させた。俺にできるのは、どうせ進む道を変えることが出来ないのならば、あなたのささやかな望みを叶えること。あなたが貴方でいるうちに、それがせめてもの餞となるように。
そんな俺の行動に対して彼女は――花のように笑った。唇の表面を、ただ触れて押し当てるだけのキスに、彼女は。
「うれしい……鳴介さん。わたし…しあわせ、です」
「薔子、さん」
その言葉に、その頬を伝う涙に、俺はゆきめとの別れの時を思い出していた。
死に逝く者は、どうしてこんなにも優しい。なぜ誰もがこんなにも無力な俺を、責めることもせず、ただ幸せだと告げて逝くのか。どうして誰もが俺を赦す。
彼女の指が俺の頬をやさしく辿り、「なかないで」と言った。
その言葉に、自分が泣いているのを知った。
「薔子さん…」
「泣かないで。悲しまないで。…貴方の側を離れないから。ずっと、」
一つになりましょう。私の中で、貴方と私。
ふいに妖気が濃くなって、姿形はそのままに彼女が別の何かに入れ替わる。溢れ出す欲を、性欲も食欲も隠すことなく微笑んだ。
「あなたが、すき。だから…おねがい、たべさせて。わたしにたべられて」
背中を撫でる指が湿り気を帯び、官能を探るような仕草に変わる。
あいしているから、と執拗に快楽を引きずり出そうとしているのに気付いた俺は、抱きしめていた腕をほどこうとしたが時既に遅く、ぬらぬらと滑る両の指よりもたくさんの指先と手のひらが――俺を拘束した。
異形のモノに体中をくまなく撫でられる、生理的な嫌悪感。男でありながら組み敷かれ、開かされ、受け入れさせられるという屈辱感。けれど、もしかしたら…いや、きっと《ひとつになりたい》という思いを互いにもっていた。……そうでなければ、こんな、…こんなこと。
作品名:世界の終末で、蛇が見る夢。 作家名:さねかずら