現実を嗤う
03.かなしいことがいっぱいある
(残像があなた、虚像があなた)
今日は穏やかな朝だった。目覚めもすっきりとしていて、心地よい。悟飯さんが生き返って数日間、俺は悪夢を見続けた。内容は覚えていないくせに、目覚めると泣いていたり、動悸が酷かったりした。俺はその原因が、悟飯さんが生き返ったという表現にあると考えた。そこで試しに、生き返った彼を、新しく出逢った悟飯さんと称する事にした。すると悪夢からは開放され、面白いようによく眠れるようになった。
新しく出逢った悟飯さんは不思議な人だった。一緒にいると常に、知っている人である、という確証は得られているのに、時々とてもおかしな感覚にとらわれるのだ。例えば悟飯さんが何も無い道で突然転びかけた時。彼は、おっと、と言ってちょっと恥ずかしそうに隣を歩いていた俺に苦笑しただけだった。それなのにその姿に違和感を覚える。俺の知っている悟飯さんはそんなところで転んだりしない。そう脳が否定する。目の前の人は紛れもなく自分の大切な師だったというのに、自分はなんて失礼な奴なんだろう!とすぐにその気持ちを振り払おうとする。けれど、そういった出来事はほんの少しのきっかけで何度も俺を取り囲み、新しい悟飯さんと出逢ってたった一週間で俺はもう疲れきっていた。
毎日、昼過ぎになると少し暇が出来る。数年前から街の復興作業に当たっていたけれど、もう大分復興が進んだので最近は午後からの時間を持て余すようになっていた。最初のうちは、一人で過ごす退屈な時間というものをどう過ごせばいいのかがよく分からなかった。生まれてからずっと、休憩や最低限の学業以外は修行をしていたし、悟飯さんが常に一緒にいたような気がしていた。とりあえず一人で鍛錬をしたりして、母さんに「もう立派な職業ね。」と笑われたこともあった。今日もいつも通り時間が出来た。悟飯さんが生き返って、また一緒に修行をすることが出来るけれど、その必要はもう無い。それよりもやけに疲れている心身を休めたくて、庭の一角に植えてある木のふもとに寝転んで体を休めていた。緑の木の葉の間から差し込む木漏れ日が心地よい。うとうとと眠りに落ちかけていると、隣に人の気配を感じた。うっすらと目を開けてその人物を見上げる。そこにいたのは悟飯さんだった。柔らかに微笑むその顔が、まるで昔のままちっとも変わっていなくて、俺は少し涙が出た。