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それは何も無いところからはじまった

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アーサーさん。灯りのない部屋の奥から低い声が聞こえる。
「手洗い場を探していて迷ったんだ」
 しれっとして嘘を吐けば、微かに笑った気配がした。悪びれもせずアーサーは奥へ進む。香の香りが流れてくる方向へ。終着点にはやはり黒髪の人物がいた。ゆったりと肘掛にもたれかかる彼のその隣に少女がちょこんと座っていた。煙管を咥えていた唇から煙を吐き出し、うっそりと口端を持ち上げられる。底が見えない黒い双眸がすっと眇められた。
「好奇心は自滅を招くんですよ」
「今更だ」
「ではここで死んでも後悔はない、と」
「俺が死んで哀しむヤツなんかいないしな」
 相手の問いかけに、アーサーは自嘲気味に笑いながら答えた。
 腹違いの弟がいるが、どうにも嫌われている節があるので自分が死んだところで別に涙を流すこともないだろう。
「貴方、ここが人間の居場所ではないとお気づきでしょう?この子が見えるのなら、お分かりになっているはず」
「あぁ。お前だって人間じゃないだろう?」
なあ、本田。アーサーはそういって笑う。本田はそれに対してにこり、と微笑んだ。肯定も否定もなかったが、否定をしない辺りアーサーの読みは当たっているはずだ。
「なんで俺を助けたんだ。お前、人間が嫌いだろ」
「えぇ、嫌いです。面白半分に我々の土地へ踏み入る不躾な存在ですからね」
「じゃあ、どうして」
「ほんの気紛れですよ」
「……」
「異国の方なんて珍しいものだから、つい」 
「好奇心は自滅を招くんじゃなかったか」
「私は自滅なんてしませんよ。これでも長生きしているんです」
 本田はさらりといいのけて煙管を咥えた。薄い唇から吐き出される煙の軌跡をぼんやりと目で追いながら、アーサーはふと零してしまった。
「本田、お前が妖狐なのか……」
「……」
「なあ―――」
「さて、好奇心が過ぎましたね。アーサーさん、人里へお帰りなさい」
 かん、と盆に煙管の灰を落とした本田は鋭さを増した瞳でアーサーを見た。その視線に気圧されてアーサーは狼狽える。
「あ、いや、悪い。その」
「さようなら、アーサーさん。もう二度と会うことはないでしょう」
 言葉を重ねようとしたアーサーの声を遮って本田がいう。
 本田はするり、と右手を中空で滑らせた。途端、アーサーの周囲がざわりと揺らいだ。はっとしてアーサーが本田を見れば、相手は微笑んでいた。その後ろで揺れる、金色のなにか。
「ほん―――」
 アーサーが名を呼ぼうとした瞬間、視界が眩い光に包まれなにも分からなくなった。







「本田っ!」
「わあ!」
 がばりと起き上がりざまに叫ぶと、真横から悲鳴が聞こえた。
「……あれ、ここどこだ」
「山の麓にある村ですよ。貴方、山の入口で倒れていたんですよ?」
「……ほんだ?」
「あれ、私の名前をご存知で……?私、名乗りましたっけ」
 アーサーの寝かされていた布団の横に正座していたのはアーサーを山中で拾ってくれた酔うことそっくりだった。短く切りそろえられた黒髪と、黒曜石色の少し大きめの双眸。
「私は本田です。本田菊と申します。貴方は?」
「アーサー・カークランドだ」
「アーサーさんですね。異国の方なのに、とても流暢に日本語を扱われるのですね」
 どこか嬉しそうに笑う本田に、アーサーは戸惑いつつも頷いた。
「母国で勉強しまくったからな」
「熱心な方なのですね」
 にこにこと笑いながら話す本田は、先程までのどこか人を煙に巻く雰囲気が消えていた。それどころか、いまはじめて顔を合わせたかのように言葉を交わしてくる。
「あれ、アンタ、本田……なんだよな」
「えぇそうですよ」
 思わず確認してしまったアーサーに本田は小首を傾げつつも肯定した。どうしたのですか?と言外に問うてくる黒い双眸に見据えられ、アーサーは信じてもらえないだろと思いながらも、自分が体験したことを包み隠さず話した。
 本田はアーサーの話をじっと聞いていた。途中で相槌を打つこともなく、ただただ静かに。一通り話し終えたアーサーは口を噤むと、本田の反応を窺う。話している最中、本田は一言も声を発さなかった。それが逆にアーサーの不安を煽った。どうせなら笑い飛ばして欲しいものだった。そんなことあるはずがないだろう、と。
「馬鹿げた話だよな」
「いえいえ。興味深いお話を有難う御座いました」
「……笑わないのか?」
「どうして?」
「え、だって」
「笑いませんよ。あの山に妖狐が住まうことは知っておりましたので」
 本田はそういって立ち上がった。
「まさか妖狐が私を騙っているとは思いもしませんでしたが。……そうですか」
「ほ、本田……?」
「少々、お仕置きが必要かもしれませんね」
 ぽつりと落とされた台詞に、アーサーはなにもいえなかった。今までの穏やかな表情が削ぎ落とされ、本田はぞっとするほど冷えた光をその黒曜石の瞳に宿していた。
 部屋を横切った本田は掛け軸の下に置いてあった刀を手に取るとそのまま部屋を出て行こうとする。それを慌ててアーサーは引き止めた。
「な、なあ、俺はどうしたら」
「あぁ、すみません。どうぞ心身共に癒えるまでこちらで休まれていてください。私はこれから少し、おいたの過ぎた狐を懲らしめてきますので」
「俺も付いて行きたい」
「……お身体の具合は」
「問題ない。頼む」
「無理はしないと約束してくださいますか」
「あぁ」
「……それでは、一緒に向かいましょう」
 申し出を受け入れてくれた本田に、アーサーはすまない、とだけ告げた。



 ざくざくと目印もない山道を本田は足を止めることもなく歩き続けていた。ひたすら無言のまま山を登る。アーサーは必死に置いて行かれないように本田の後を追う。あの小さな身体にどれだけの体力があるのだろうと不思議に思うくらい、本田の足は止まらなかった。アーサーは体力には多少自信があったのだが、これでは鍛えなおさないといけないようだ。
 やがて本田は開けた場所に辿りつくと、漸くその足を止めた。肩で息をしていたアーサーはこれ幸いとばかりに座り込む。本田はそんなアーサーを見てくすり、と。
「おやおや、お若いのに。私より先にばてては大変ですよ?」
「お前、だっ…て、と、いうか……俺と同じか、下くらいだろ…歳」
「さて」
「……」
 おっとりとした表情のまま、真意をはぐらかす本田に、こいつも狐が化けてるんじゃないかと疑いたくなるアーサーだ。
「それよりも、はやくお出でまして欲しいのですが……」
「妖狐か?」
「えぇ。私が来たと分かっているはずですから」
「そうなのか」
「ここは彼の縄張りです。何者かが踏みいれば必ず気付く」
 そうやりとりをしている内に、ぶわりと風もないのに足元の枯れ葉が宙を舞った。その勢いに悲鳴を上げてアーサーは顔を覆った。
「−−−これはこれは、珍しい来客が」
「そうですね、ここを訪れるのも随分久しい」
「本日な何用で?」
「そろそろその姿にも飽きたでしょう。他の人間に化けてはいかがですか」
 枯れ葉がすべて落ちきる頃、おそるおそる腕を顔の前からどかしたアーサーは目の前の光景にぽかんとした。
 同じ顔の人間がふたり、向い合って立っている。