無人島に持っていきたいもの
キッチンに、甘い匂いが充満している。
タマネギとニンジンとバターの匂いだ。スライスしたタマネギとニンジンを焦がさないようゆっくり炒め、しんなりと良い具合に火が通ったらブイヨンと合わせて丁寧に灰汁を取る。それを裏ごしすれば、サンジの今日の仕事は終わりだった。
ちらりと壁にかけられた時計に目をやる。時刻はじきに日を跨ぐ頃合いだった。
ようやく全ての作業を終え、ふうと一息ついたその時、サンジの耳に聞き間違いようのない足音が聞こえてきた。思わず眉間に皺が寄る。
今晩はまだ来ねェな、このまま寝腐っちまってればいいんだが、などと内心期待していたのだけれど、こっちの期待通りには全く動いてくれないのがロロノア・ゾロという男だった。そもそも再出航してからの数日間、あの男が夜にやって来なかったためしなどないのだ。今日はひょっとしたらこのまま、などと甘っちょろい事を考えていた自分が馬鹿だったと、サンジは顔を顰めながら小さく舌打ちを漏らした。
「よ。酒くれ」
お決まりの台詞を口にしながらドアの向こうから顔を覗かせたのは、やはりあの男だった。それに険の滲む目をちらりと向け、すぐに逸らす。
「ねェよ」
「ねェってこたねェだろ。たんまり買い込んでたじゃねェか」
「テメェに飲ます無駄酒はもうねェっつってんだよ。毎晩毎晩飽きもせず酒せびりに来やがって」
「飽きるわけねェだろ。てめェだって毎日スパスパやってるそれ、飽きたりしねェだろうが」
不機嫌丸出しのサンジの様子にも構わず大股でこちらに近づいてきたゾロは、そのままずかずかとキッチンの中にまで侵入してきた。
手を伸ばせば届くか届かないかの距離に立ったゾロは、口元を笑みの形に歪めたままじっとサンジの顔を見ている。その目に晒されるのが嫌で、サンジは手元に目をやるふりをしてふっと顔を伏せ、長い前髪で横顔を隠した。
「キッチンにまで入って来んじゃねェよ」
「別に良いじゃねェか」
「良くねェよ、テメェの撒き散らすマリモ菌がメシん中入っちまったらどうしてくれる」
「なんだよマリモ菌て。つーか何作ってんだ。匂い嗅いだらなんか腹減ってきた」
言うなり裏ごししたニンジンのピューレに手を伸ばしてくるのに、慌ててそれを叩き落とす。上出来のピューレに汚い手を突っ込まれてはたまらない
「きったねェ手突っ込もうとすんじゃねェよ、こりゃ明日の朝食に出すポタージュ用のピューレだ。テメェに舐めさせる分なんてねェよ」
「へー。ポタージュってあれか、とろっとしたスープか」
「そうだ。なんか文句でもあんのかよ」
「ねェよ。美味そうだな」
何の気なしに発したようなその一言に、ぐっと言葉が詰まる。
こんな事を言う男ではなかったはずだ。本当にごく些細な部分が、以前までのゾロと違う。
以前までの彼なら、腹が減ったと要求する事はあっても美味そうだなどという感想までは口にしなかった。どんな食事を出してもがつがつと食うわりには、その感想を口にしない男だったのだ。美味いかよと聞いても、別にと答えるような男だった。コックにとって一番嬉しい言葉を、無意識のうちに避けて選んでいるような。
なのに。
一体この二年で彼の身に何が起こったのだろう。聞いてみたい欲求にも駆られたけれど、ぐっと堪えて口を噤んだ。
彼がサンジの二年を問うような事はなく、さして興味が無いようにも見えた。彼の二年間を聞いて、こちらばかりが気にしているように思われるのもなんだか癪だ。
「……ったく仕方ねェな。何か適当に作ってやるから、ちっと待ってろ」
盛大に溜息を吐きながら、サンジはくるりとゾロに背を向けた。腹は立つけれども、ここは大人しく彼の要求を呑むのが得策だろう。軽いつまみと適当な酒を渡して、さっさと追い払ってしまった方が良い。いつまでもここに居座られる方が厄介だ。
さて何を作ろうかと考えつつ、巨大冷蔵庫の扉に手を伸ばす。
と、背後から伸ばされた手がその動きを止めさせた。
硬い手のひらに握り込まれた手に、心臓がばくんと大きな音をたてる。
まずい、この体勢は。
慌てて振り返り睨み付けた先には、至近距離で笑うゾロの目があった。
「離せ」
振り解こうと手に力を込めるが少しも動かない。元々規定外の握力を誇っていた彼の手は、二年を経て更にその強さを増したようだった。
「離せって、何か食いてェんじゃねェのかよ」
「まあ、食いてェは食いてェんだが」
顔を傾けながら前髪の奥まで覗き込もうとしてくるゾロの目に、反射的にパッと顔を逸らす。サンジのその反応に、彼がまた笑ったのが気配で伝わってきた。
「こっち見ろよ」
「なんでだよ。つーか離せ」
「離したら逃げるだろ」
「逃げねェよ。なんでテメェなんかからおれが逃げなきゃなんねェんだ」
「お、絶対ェだな。じゃあ逃げんなよ」
笑みを含んだ声でそう言うと、ゾロは掴んでいたサンジの手をパッと離した。離された手でぐっとゾロの身体を押し返そうとするが、少しも動かない。気が付けば、冷蔵庫を背にゾロの両腕で囲い込まれるような格好になっていた。
まるで強引な男に口説かれている女の子みたいな体勢だ。
自分でそう考えてしまってからげんなりする。自分は男に口説かれる趣味などないし、目の前の男も女の子を口説くようなスキルは持ち合わせていないはずだ。
ならばこの体勢は何だろう。
考えるまでもない。彼はこのまま、二年前に度々交わしていたあの良からぬコミュニケーションへと持ち込もうとしているのだ。
肘を突っ張って彼の身体を押し返すような素振りを見せながら、サンジはギロリと目の前の男を睨み付けた。
「なんなんだよ、この体勢は。つーか何がしてェんだよテメェは。人のツラ見てニヤニヤしやがって、何か文句でもあんなら言えっつってんだろうが」
「別にねェよ、文句なんか」
「じゃあ何なんだ。馬鹿にしてやがんのか」
「ああ、まあ、アホだなと思っちゃいるが馬鹿にしてるわけでもねェな。面白ェから見てるだけだ」
「面白ェって何がだ。おれァ別にテメェを面白がらせるような事ァ何もしてねェぞ」
「何もしてなくったって面白ェんだよ、てめェは。つーかもっとちゃんと良く見せろ」
「やなこった、離せ」
「見せろって。片目になっちまったから、近くまで寄んねェと細けェとこ良く見えねェんだよ」
そう言った声に、陰った色など少しも滲んでいなかった。
けれど。
「………………」
ゾロの身体を押し返そうとする手から、じわじわと力が抜けていく。
そんな言い方は卑怯だと詰ってやりたい気持ちはあるのに、口を開けば別の言葉が飛び出してしまいそうでぐっと口を噤んだ。目の前にあるゾロの顔を見たくなくて、目だけをふっと伏せる。
ゾロの左目を塞ぐ傷跡を見るのが嫌だった。
そんな傷を作りながら暢気にニヤニヤと笑っている彼の顔を見るのが嫌だった。
どうしても、その傷にばかり目が行ってしまうからだ。
黙り込んだサンジの反応を了解と受け取ったのか、ゾロは腕の中に囲い込んだサンジの顔を思う存分眺め回した。
顔を傾け、あらゆる角度から眺める。さくりと指を差し入れサンジの前髪を掻き上げると、ゾロは楽しそうに声を上げて笑った。
作品名:無人島に持っていきたいもの 作家名:カレカレ