たとえばの話をしよう
「君はルシフェルを倒したんだから、メタトロンの力はルシフェルより強い。強い力は弱い力に影響されないよ。私がルシフェルの力に影響されないようにね。――さて、メタトロン。君のやることは分かったかい」
メタトロンは逡巡した後、頷いた。神は満足そうに微笑み、「それではこれを、君に」と「ルシフェル」を手渡した。
「ラファエルの所に行きなさい。彼が、ルシフェルの肉体の中に魂を戻してくれるよ」
「はい。……主よ」
「なんだい、メタトロン」
「甦ったルシフェルは、大天使なのですか」
神は頭を振った。
「あの子の力は、私と君、そして自分自身に影響しない。たとえ君が書記官であった頃に時間を戻しても、あの子は堕天使のままだ」
「……そうですか。それと、もう一つ」
「それは?」
「同じ時間に、同じものは二つ、存在できるのですか」
神は再び頭を振り、「だが君のことなら問題ない」と答えた。
「人間のイーノックと、大天使メタトロンは違うものだ。同時に存在できるよ」
もう聞きたいことはないね、と神は言った。そして「幸運を祈るよ、メタトロン」と微笑む。
「主よ」
「まだ何か?」
「あなたは、今回の結果を――いえ、次の私、……いやイーノックの旅の結末も、ご存知なのではないですか?」
神は何も言わずに微笑み、「さあ、行っておいで。ルシフェルと共に。救うと言うなら、その宣言通りに全てを救いなさい」と促した。
*
ラファエルの元に向かうと、彼は頭を垂れてメタトロンを待っていた。
「お待ちしておりました。……ルシフェルさまのお体は、綺麗に清めてあります」
相変わらず、土人形のような体が横たえられていた。作られたときのそのままであろうそれは、彫刻のように美しい。ラファエルはルシフェルの滑らかな頬に指を滑らせ、「お労しや、ルシフェルさま」と嘆いた。
「メタトロンさま、ルシフェルさまの魂をこちらへ」
「あ、ああ」
小さな箱を手渡すと、ラファエルはそっと蓋を開いた。中から沢山の鎖で縛られた、光のようなものが出てくる。
「これが、ルシフェル……?」
「ええ。今から、こちらを体内に戻します」
ラファエルはそっと鎖を解き、光をルシフェルの胸に当てた。ゆっくりと体に吸い込まれていくと共に、彼の体が少しずつ生を取り戻す。なめらかな肌は光沢を放ち、黒く染まって尚美しい羽がぴくりと動いた。
不思議なことに、先ほどまでは平気だったのに、彼が「生き」返った瞬間に何故か彼の体を見ていられなくなった。目を逸らしたメタトロンを気にする様子もなく、ラファエルはルシフェルを見守っている。
やがて、彼が目を開いた。
「……ラファエル? 私は……」
「ルシフェルさま。……説明はあとでいたします。まずは、裸では不都合ですから、お召し物を」
彼は体を起こすと、ふらりと倒れそうになった。メタトロンが手を伸ばすより前に、ラファエルが当たり前のように抱き留める。そして彼に、見慣れた服を差し出した。
完全にルシフェルが着替え終わると、ラファエルは「では、後はメタトロンさまと」と言い残してその場を去った。しかし、全ての所作において丁寧だった彼は、去り際にメタトロンに鋭い一瞥を残した。大天使が神に等しい最高位の天使にぶつけるには、不躾すぎる視線だった。
「……イーノック」
しかし今は、それを気にするよりも目の前の堕天使のことだった。少し聞かないだけだったのに、ルシフェルの声は懐かしいものとしてメタトロンの耳に響いた。
「ああ、ルシフェル。……もう会えないかと思った」
「私は何故ここにいる。お前に倒され、魂は幽閉されたはずだろう」
「私が戻したんだ」
「なぜ」
「全てを救うために」
メタトロンは神とのやりとりをルシフェルに説明した。ルシフェルは眉を顰めて聞いていたが、やがて「くだらない」と吐き捨てる。
「人類は救われた。お前は大天使になった。それで? 最良の未来を、わざわざやり直すというのか」
「これは最良の未来ではないよ、ルシフェル。私は全てを救っていない。だから、やり直すんだ」
茶番劇だ、と彼は言った。確かにそうだろう。一回目の旅は、イーノックと大天使ルシフェル、そして神。それをなぞるように、二回目の旅をイーノックと堕天使ルシフェル、そしてメタトロンで行う。
しかし。
「ルシフェル、頼む。私に従ってくれ」
メタトロンが言うと、ルシフェルはしばらく黙った後に「お前は神に、その権限を委託されたんだな?」と尋ねた。頷くと、彼は「ならば、私に拒否権など無い」と素っ気なく言う。
「神は絶対だからね」
皮肉を含んだこの台詞は、過去にも聞いたことがあった。メタトロンはそれに対しては何も言わなかった。代わりに「ルシフェル、あなたはどうして堕天をしたんだ」と問いかける。ルシフェルは目を逸らし、「答えたくない」と言った。
「そうか。……ルシフェル、あなたは何度も時を戻した。私が失敗する度に」
「ああ」
「しかし、何度も繰り返す中で、私は何か、失ってはならないものを失ったのではないか」
ルシフェルの肩がぴくりと動いた。メタトロンは半ば確信を得ながら「私はそれを取り戻したい」と言う。
「過去の私は、今度こそ、最上の未来を選択するだろう。そしてその最上の未来では、今の私が無くしてしまったものを、彼は手にするはずだ。ルシフェル、私は何より、それを求める」
「……イーノックは確かに、巻戻る中であるものを失った。しかしそれは、失って良かったものだ。失ったから今のお前があるんだぞ、メタトロン」
「その名前で呼ばないでくれ!」
ルシフェルにまで天使の名で呼ばれ、メタトロンは叫んだ。しかしルシフェルはそんなことは意に介さぬように、「分かった」と頷いて「君の言った通りにしよう」と腰を上げる。多少足下がふらついたが、指しだした手ははね除けられた。
「イーノックが書記官であった頃、神が大洪水を選択なさった頃まで時間を戻す。それでいいんだな?」
「ああ」
ルシフェルはすっと右手を挙げると、パチンと指を鳴らした。その瞬間、世界がぐにゃりと歪んで高速で巻戻り始める。少し前までは、それは自分を戻すための力であったのに今は自身がその力の外側にいるのが不思議だった。
*
二度目の旅は、まるで一度目の旅をなぞっているようだった。茶番だ、とルシフェルは思う。
「イーノック。そんな装備で大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない!」
問題大ありである台詞を吐いて駆け出す彼の背中を目で追う。そんなことまで、同じだった。何度も繰り返した旅を、再び繰り返しているような気分になる。
しかし。ポケットの中の携帯電話を取りだして、アドレス帳を眺めた。そこには二つの名前がある。神と、メタトロン。今回は神ではなく、メタトロンに連絡を取ることになっている。そこが違う。
また、ルシフェルはイーノックに決して翼を見せなかった。過去のイーノックは、ルシフェルが大天使ではないことを知らない。彼にとってルシフェルは大天使であり、堕天したなどとはついぞ思っていないからだ。
戦うイーノックを遠目で見ながら、ルシフェルは「メタトロンは何を考えているんだ」と呟いた。
作品名:たとえばの話をしよう 作家名:ネイビーブルー