NAMELESS OPERA
すぐにも新大陸へ渡るという計画は変更を余儀なくされていた。
魔物の跳梁する土地は、二人の腕を合わせてすら前進が困難なほどだった。
アレンは最悪に備え、サマルトリア城に一度戻ることも提案した。
カインの無事な姿を見せることも重要だと考えたが、カイン本人はすぐには賛同しなかった。
城を出た当時の装備では、いまや魔物に通用しないことを考えれば、城下で新しい装備を誂えること異議は無いようだったが、拠点は再びリリザに戻っていた。
湖の洞窟からの距離では、リリザに辿り着く頃には既に日は落ちてしまっており、城下に向かうには日を改めないわけにいかなかった。
酒場で食事を取りながら、地図を開き、行程を打ち合わせ、二階には眠る為だけに上がるが、屋根も寝台もあることは、路上に比べはるかに恵まれていた。
本人は何一つ愚痴はこぼさないが、口数も減り、少食になってゆくことが、カインの疲労度を訴えていた。
アレンも気遣う振りを見せないよう努めながら、更に進行の行程の配分を減らしてゆくことを心に決めていた。
実家たるローレシアとは何度か連絡を取り合い、情勢や人口の流入について情報を把握した。
三台ある寝台のうちの、シートもマットレスもない、剥き出しの一台に荷物を片付け、アレンが横になろうと思いついたときは、もう深更をまわっていた。
なにげなく、疲れているであろうカインの寝顔を覗き込んで、アレンは思わず固まった。
眠っていたはずのカインがわずかに身じろぎした。
ゆっくりと双眸が開かれ、その水色がかった淡い翠緑の瞳がアレンを見上げた。
”―――起こしてしまった”
咄嗟に謝る言葉を発しようとしたまま、しかしアレンは動けなくなった。
カインの右手がゆっくりとアレンの顔に伸ばされ、―――指先がアレンの頬に触れる。
「…………アレン?」
まだ覚醒しきってないカインの、確かめるような問いかけだった。
「ああ、僕だよ―――」
安心させるように言いたかったが、アレンは自分の声が掠れるのを止められなかった。
あたかも幻でないことを確かめるように、カインの指はそのままアレンの頬の輪郭を、すべるようになぞる。
「……よかった……」
呟くような言葉が、ほんの唇の動きだけで紡がれた。
自分を見上げる名状しがたい表情は、笑顔でありながら、泣き出しそうにも見える。
その吐息のようなかすかな囁きは、アレンにとって、まるで無数の鐘が鳴り響くかのように感じられた。
あらゆる音が、突然拡大されたように感じた。風や衣擦れや、相手の呼吸や鼓動ですら大音響となり、豪風のように全身の感覚を圧倒してくるのだった。
たった今、彼の指に触れられた頬は燃えるようで、その熱は自分の全身を巻き込む炎となって、全存在を焼き尽くすほどだった。
カインの手はそのまま力なくベッドの上に落ち、再び双眸も閉じられ、彼はまた静かに眠りの中に戻っていくようだった。
離れなければ。
アレンは自分に命令した。
すぐに離れろ!
あまりにも愚かな考えだ。途方もなく馬鹿げている!
自分がいったい何を欲しがっているのか解かってるのか!?
彼のことを思い出すことはよくあった。
ここ十日間ほどは、彼のことしか考えていなかった。
だがそれは、意味するところがまるで違う。
”今すぐ忘れろ”
いまだかつて、これほどまでに耐え難い衝動を感じたことはなかった。
絶対に許してはいけないことだ。
”全部忘れてしまうんだ!”
アレンは、冷水を浴びようと考え、部屋を後にした。
そして、一人になっても、むなしくも狂おしくあの手を求めている自分を強く意識した。
あの声と、あの息遣い、そして……。
これは何という魔法なのだろう。
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