NAMELESS OPERA
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ローレシア王から、サマルトリアに対し、ハーゴン討伐軍の総司令官として、サマルトリア王に委任すという正式な書状が届けられたのは、まだ早朝であった。
サマルトリア王ジルオールは、自らの申し出が承認されたにも拘らず、それを沈鬱な表情で受け取った。
既に分隊のいくつかはムーンブルク大陸へと派遣され、情報収集や治安維持に勤しんでいる。
統治者不在の広大な土地が、このまま一面の無法地帯と化すことを憂慮したものであり、それは浅からぬ縁戚関係という立場からの自国の重大な責任もあった。
そういった名目がどうあったところで、地の利を生かして入国を先んじ、他国の食指を牽制するという意図を、誰が隠しおおせると考えられるだろう。
ふと、哀しみに浸りたい、逼塞して喪に服したいという、それらの要求のあまりの強さに、自分の咽喉を撫で下ろした。
そんな感傷が一体何になろう。
ただ一人の時は、自身の、肉が落ちて剥き出しにされた骨のような酷さを自覚し、唇の端を笑いに歪めているではないか。
どんな良心の呵責が、己の行為の免罪符となりえるというのだ。
ジルオールは立ち上がり、緑の騎士団の騎士団長モルディウス卿を呼び、戦略会議の為の人員を招集させた。
忙しく日々を送りながら、一つの渇望が自分を捕らえて離さなかった。
城内にカインの姿が見えないことは、ひどく欲求不満な気持ちを抱かせるものだった。
ローレシアの皇太子は恐らくカインと合流できたのであろう。
二人して、このサマルトリアに来訪した折に掛けるべき言葉も用意したが、まだカイン等に帰還の様子はない。
ティア付きの乳母ネーナは、国王たる自分の監視の目であったが、もはやその情報の流れは当てにならないものとなってきている。
彼女の諜報活動は、いまや忠誠を誓う相手の変化によって、方向が変わったと見るべきだった。
“―――アレン殿下”
あの血筋、あの育ち、あの容姿、それに加えてあの才能と技量。
玉座に座るこの自分は、誇りあるロトの家系とは無縁だというのに。
その自分の周りの世界全てが、ただ彼一人を仰いでいるという思いは、拭い去ることのできない確信だった。
眼下に、鏡のように凪いだ紺碧の海があった。何一つ遮るもののない広大な世界が目の前に広がっていた。
天候のよい日には、ローレシア城の高い楼閣の上に立つと、その空と海の境目にごく淡い薄紫のラインが幻のように浮かんで見えることがある。
それがはるか遠いムーンブルク大陸であった。
側近であり、ローレシアが誇る青の騎士団長であるサイラス卿のみ侍らしたまま、ローレシア国王ローランドは見晴らしのよい楼閣に出ていた。
歩くことももはや一人ではままならぬ体は、今は簡素な椅子に預けただけだった。
自分の内なる思いとはあまりにも裏腹に、空はどこまでも晴れ渡り、世界情勢の悲痛さとは無縁にも、平穏な明るい季節であった。
「陛下、風がお体に触りませぬか?」
恭しく腰を屈める数人の侍女を待たせ、王妃エレアノーラが流れるような足取りで裳裾を引きながら近付いてきた。
わずかな指の動きと目配せだけで、サイラス卿は畏まり、一礼をして国王から離れた。
彼は会話の聞こえないところまで下がると、そこに待機した。
「アリー」
二人のときにのみ使われる愛称で、国王は王妃に呼びかけた。
「そなたには……どんなに……詫びても詫びきれぬな」
そこで激しく咳き込む夫に、王妃は自ら駆け寄り、懐から出した美しい布を国王の口元にかざした。
咳が止むのを待って、王妃が立ち上がる。
「陛下、ここは風が強うございます。どうかお部屋にお戻りあそばしませ」
「よいのだ、アリー。ここでなら、余とそなたの二人のみ。国王と王妃ではなく、人の子の、父と母で居られよう」
王妃は静かに微笑み、自分も顔を上げて、ローレシア大陸の果てと、水平線の彼方に目を遣った。
「もう、見えなくなるほど、遠くまで駆けて行きましたのね。本当に、あの子は足が速くて、……よちよち歩き始めてから、すぐにもう、乳母たちも追いつくのがやっとでしたわ」
「……やんちゃ坊主だったな」
「年寄りたちは、陛下の幼い頃にそっくりと、口を揃えて申しておりますのよ」
「それは参ったな」
幼いアレンが声を立てて笑うのを聞きたいがために、城のあらゆる誰もが腐心したものだった。
侍従や大臣はもとより、衛兵や番卒も彼を可愛がった。
厨房や作業場ですらアレンには遊び場であり、浴槽ほどもある大鍋の横にしつらえた高椅子に、小さなアレンを腰掛けさせ、料理長が熱心に昔話を聞かせることもあった。
王妃はけして涙を零すまいと心に決めていた。
自分が嘆き悲しむことは、夫を責めることに他ならない。
夫にとっても、ただ一人である世継ぎたる我が子を、死出の旅につかせる苦しみは、とりもなおさず、かつて剣の腕を誇った我が身が、もはや余命を保つのみとなった苦しみに倍加するものであるはずだった。
でなければ、自らが戦場の第一線に出て、剣を振るったであろう。
その夫の気性を、知っていればこそ尚のことであった。
此度の討伐軍の総司令官を、隣国に委任する気持ちは如何なるものかを考えると、王妃は胸が締め付けられるようだった。
「わたくしたちの坊やのやんちゃが過ぎて、サマルトリアの殿下を困らせてないとよいのですが」
サマルトリア。
国王は口の中で呟いて愕然とした。
我がローレシアの「盾」となるよう、あの皇太子もまた、そう教えられ、育ったのであろうか。
彼の両親を語るには、別の言葉が必要だった。
外交も政治も関係ない、人間としての自分の言葉が。
彼等は常に、自分の中で特別な場所を占めているのだ。
その皇太子の父たる王は無念にも夭折を遂げ、そして王妃が自分の命と引き換えに生んだというのに。
ただ「盾」になるためだけという酷さを、どうして容認できよう。
「我々の坊やは優しい子だ」
国王は肩に置かれた手に自分の手を重ね、王妃を振り返った。
「そなたに似て、余は心から誇りに思っている」
王妃は夫の手に、更に自分の白い手を重ねた。
「わたくしたちの一番愛しいものを、ルビス様にお捧げ致しました。神様はきっとご照覧くださいますわ」
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