NAMELESS OPERA
身支度を終えたカインが階下へ降りると、アレンはいつものように朝食を摂りながら地図を広げていた。
例え屋内であろうと、アレンが隙を見せることはありえなかった。
必ず室内全てを把握できる位置に腰を下ろし、誰のどんな動向にも対処できた。
カインが降りてきたことに、アレンは気付いているはずだった。
だが、今朝に限って、アレンは顔も上げなかった。
いつもなら気軽に掛けられるおはようの言葉もないまま、地図に見入っている。
起床が遅れたことに、酷く気まずい思いのカインには、その些細な違いすら思いを強めるものだった。
アレンは一度たりとも、そのことで自分を急がせたことは無かった。
だからこそなおのこと、自分の所為で、予定の行程を消化できないという事実に、焦燥は増すばかりだった。
アレンの視界を避けるようにテーブルに近付き、彼の背後に立つ。
上体を屈め、アレンの肩越しに地図を覗き込もうとした。
頬の辺りでフワリと動く風に気付いたアレンが、反射的に地図を握り締めるように掴み、弾かれるように席を蹴って立ち上がった。
「―――っ、君か!」
「声をかけなくて悪かったな―――」カインが溜息をついた。「見ちゃまずかったか?」
「いや、そんなことはないよ」
アレンは自分が握り潰した地図を、テーブルの上で拡げ直した。
「考え事をしてたから、ちょっとびっくりしてしまって―――」
そこで急に思いついたように、酒場のカウンターに顔を向ける。
「朝食を用意してもらうよ。何か君の食べられそうなものを―――」
アレンの動きにいち早く少女が飛んできて、アレンの空になったカップにコーヒーを注いだ。
テパの高地産の甘い香りのする豆とは比べられないが、嗜好品としては贅沢なものだった。
店主のニコラが、カウンターの中から愛想よく、白磁のポットを掲げてみせる。
「兄さん方がこの辺の魔物どもを一掃なさってくださるんで、近隣ではそれはもう、えらく助かってるようですよ」
彼の話では、多くの家畜が災禍を免れてるため、お礼として、アレンたちにと、クリームやチーズが届けられてるということだった。乏しい食材で遣り繰りを余儀なくされている店にとっても、またとない恵みであった。
談笑に加わりながら、終始アレンは、カインを見るのを避けているようだった。
人は自分が避けられてるとき、なんと敏感にも正確に気付いてしまうことだろう。
カインは輪から離れた場所に立ち、暗い表情で目を逸らし、自分の法衣の裾を握り締めた。
その鎧ムカデは、体の前半部分を持ち上げると、優に大人の身長を上回るものだった。
異形の節足部分を敏捷に蠢かせるその外観だけで、激しい嫌悪を催させるものだったが、それは更に巨大化して迫ってくるのだった。
ローラの門を目前にして、倍加する魔物の数に、ギラは既に撃ち尽くしていた。
カインのその最後のギラを受けても、その巨大な鎧ムカデはなおも倒れなかった。
節足動物の素早さで、攻撃を与えた相手を認識するが如く、後衛に居るカインに真っ直ぐ突進してきた。
アレンがその恐るべきバネで地を蹴って、鎧ムカデとカインの間に割り入った。
頭上から顎を開いて向かってくる鎧ムカデの頭部を、アレンが手に持った銅の剣を繰り出し、したたかに受け止めた。
だが、受け止めたと思ったのは間違いだった。
カインは信じられないものを見る思いで、その様子を見つめた。
なぎ払うアレンの剣は、鎧ムカデの頭部を、まるで植物の茎か何かであるかのように切り落としていた。
頭部は弧を描いて飛び、重い音を立てて転がり、なおも牙を打ち鳴らす。
アレンは飛び退って、ムカデののたうつ巨体と飛び散る体液を避け、カインに駆け寄った。
「怪我は?」
「いや―――」
カインの視線が自分の剣に集中してることに気付いたアレンは、改めて自分の剣を確かめた。
「ああ、刃こぼれが酷いな。手応えもおかしかったし」
鋳型に流し込んで作られる銅の剣は、剣とはいえ、棍棒のように打撃主体で使われる代物のはずだった。
にも拘らず、アレンに使わせるとそれはあたかも鋭利な刃物であるかのように、魔物を瞬時に切り裂いていた。
どんな膂力と速さが、彼の腕に秘められていることだろう。
アレンが触って確かめているうち、銅の剣は根元から音を立てて二つに折れた。
「やはり寿命だったか。道理で手ごたえに違和感があるはずだ」
カインは、携えた細身の剣に触れる自分の手が震えてくるのが解かった。
“―――剣の腕も凄いじゃないか!”
あのとき、少しでも晴れがましい気持ちになったのは間違いだった。
自分の剣など、彼の前にあってはただの児戯に等しいではないか。
アレンは溜息をつき、折れた刃先を拾い上げると、鞘に入れ、柄も差し込んだ。
「ごめん、ここまで来て。もう一度街に戻っていいか?」
「武器を新調しなきゃ進めないしな。お前が謝ることじゃねぇよ」
カインがキメラの翼を渡そうとすると、それまでにこやかだったアレンの表情が硬化した。
「見せてみろ!」
いきなり右肘を掴まれ、カインが痛みのあまり、端麗な顔をゆがめた。
黒い着衣のため全く目立たなかったが、明らかに出血の染みが大きく広がっている。
破れは無い。ではこの穴は何なのだ。
―――針か?
―――牙か?
なぜ自分は気付かなかったのだ!
「いつからだ?僕にホイミをかける前か?そうなんだな!」
「いいから放せって!」
振り解いた勢いで、カインは数歩後ずさった。
「解毒さえしておけば、たいした傷じゃない。誰をいつ回復するかは、ちゃんと判断してるぜ」
―――やはり毒蛇か!
アレンは、最悪を予想して戦慄する自分が居るのに気付いた。
動揺しながらも、言葉だけは平静を保とうと努めているつもりだった。
「でも、それで剣が遣えず、頼りの魔力も使い尽くしたら何もならないだろう?」
カインは承服しがたい表情で、顔を背けて唇を噛んだ。
抱き続ける、燠火のようにくすぶる焦燥感が、ジリジリと我が身を苛むようだった。
アレンの怒気は、急速に罪悪感へと変わっていった。
相手を責めるくらいなら、自分に非があったほうがどれほどマシだったことか。
気を取り直してゆっくりカインに近付くと、彼が左手に握ったままのキメラの翼に向けて、手を差し出した。
「借りていいかい?戻ったら、ちゃんと手当てしてくれた方が、僕は安心だな」
カインは震えるように大息をつくと、顔も上げずに、アレンに従った。
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