NAMELESS OPERA
その場ですぐにも出発しようとしたアレンは押し留められ、馬を用意する間と言う名目で饗応にあずかることとなった。
アレンの出奔の報が、早鳥でローレシアからもたらされた日から、アレンの到着まで七日ということにサマルトリア側は驚嘆していた。
如何に健脚のアレンとはいえ、その強行軍が心身ともに疲弊を余儀なくしていることは明白だった。
ローレシアの正当な王位継承者として、アレン自身、サマルトリアの主賓として特別にもてなすべきであったが、国王の好意で儀礼的な部分は大きく省かれ、食事と休息がこれに充てられた。
北国の朝は早く、深夜を過ぎた頃から空はゆっくりと白み始めた。
休息を必要とした体とは裏腹に、気持ちだけはジリジリとした焦燥に駆られるまま、浅いまどろみから醒めたアレンはすぐに出立の用意に取り掛かった。
国王も執務に取り掛かっており、早々にお礼と挨拶を済ませると、謁見室から出て来るアレンをティアがじっと待っていることに気付いた。
「もう行っちゃうの?」
「おはようございます、姫」
ティアは慌ててドレスの裾を持つと、交差させた左足を後ろに引いて右膝を屈めた正式なお辞儀(カーチィ)で応えた。
「おはようございます、殿下」
再びティアと目を合わせるようにアレンは屈み込んだ。
「姫様のお見送りにあずかり、光栄に存じます」
「アレン様にお持ち頂きたい物があって、お待ちしておりました」
小鳥のさえずりを思わせる小さな声でティアが囁いた。
合図を受けたように乳母のネーナが、細い籐で編まれた箱型の籠を抱えてティアの後ろに立った。
「パンと林檎酒などをご用意いたしました。道中のお役にお立て下さい」
ティアは緊張のあまりに震える声になりながら、頬を紅潮させた。
「姫のお心遣い、有り難く頂戴いたします」
アレンの心からの笑顔に、ティアは安堵の表情からやがて陽がさすような笑顔に変わる。
「兄上のことは、どうぞお任せ下さい」
アレンはティアの心中を察し、確約するように頷いて見せた。
「姫様は、どうかお心安らかにお待ち遊ばされるよう」
「はい、殿下。もう泣いたりいたしません」
「では」
「あのっ、これを……!」
立ち上がるアレンにティアが急いで小さな布を差し出した。
「お守りになるように、私が作ったの!あの、もし、よろしければ、どうか……」
手にしたのは、掌ほどの大きさしかない純白の手巾(ハンドカーチフ)だった。
ローレシアを象徴する青い色の刺繍糸でラーミアの紋章が縫い取りされている。
何の技巧も凝らされておらず、まして実用になる物ではない。
しかしアレンには、自分にとってこれ以上の心のこもった贈り物は無いと思えた。
「このうえない贈り物です。これまでのおもてなしとお気遣いに、なんとお礼を申し上げればよいか」
「では、どうかご無事でお帰り下さいませ」
「お約束いたします、姫。兄上の留守中、サマルトリアをよくお守りください」
「はい」
籠が鞍にしっかりと結び付けられると、鮮やかな身のこなしでアレンは馬上の人となった。
大きく馬首がめぐらされ、ネーナに寄り添われたティアが、胸元で小さく振っていた手を、頭上高く振った。
「アレン様、御武運を!」
アレンは確かにその声が聞こえたように片手を上げた。
飛ぶように駆け去ったあともティアはまだ佇んでいたが、泣くまいと堪える勝気な表情の頬に、涙が零れ落ちる。
ネーナは思わずしゃがみ込み、跳びついてきた小さな王女をしっかりと抱きしめた。
用意された馬は素晴らしいものだったが、乗り潰すまいと必死で自制しなければならないほど道のりは遠く感じられた。
ローレシア大陸の北辺に連なる大森林が切れると見晴らしのいい丘陵地帯が地平線まで続く。
魔物の襲撃に備えて身を隠す場所すらない一帯に、道標のように旅人のものらしい防具や携帯品の破損した欠片が点在するのを目にするたび、アレンは戦慄した。
道中、生きた人影を目にすることは皆無であった。
夜を迎えてやむなく野営を決める。
馬の休息も大切であり、その方が自分の足で夜通し駆けるより早いだろうと、頭で判っていながら気持ちを納得させるのに非常な努力が必要だった。
翌日、大陸を二分する運河を越え、再び森林地帯に突入した。
道なりに半島を横断すれば、勇者の泉の洞窟はもう間近だった。
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