PROMINENCE
熟れ切ったトマトが一つと、三本入りの茄子が一袋、合挽き肉に半丁一パックの豆腐と昨日の残りの煮物が少し。冷凍庫にも何かあったと思う。指を折ってあらかた買うものが決まった時、ふと道に響く足音が二重になっていることに気づいた。
住宅の込んだ道で人通りがないわけではなく、帰宅途中のサラリーマンや学生風の人と何人もすれ違ったが、背後から来るその足音はやけに耳につく感じだ。スニーカーやサンダルではない、もっと堅いソールの音は、雨竜に近づくわけでも、追い越そうとしているわけでもなくただ後ろをついてきている。
能力をなくしたとはいえ虚狩りの滅却師、霊には強いが生身の人間が相手となるとそううまくもいかない。外見からしてカツアゲの絶好のカモなのは、情けない話だが自分でも分かっている。
ともかく雨竜はそ知らぬふりでそのまま歩き続けた。そして十メートル程のところで足を止め、背後の足音も止まるのを確認すると、
「何の用だ」
と冷たく言い放った。背後の人間の、焦った様子が分かる。今更どこかへ隠れようとでも思っているのだろうか。雨竜は唇の端を歪めると、すっと右手を上げ、一軒の家の門の辺りを指してこちらへ首を捻った。
「映ってるよ」
雨竜の指の先、門の上には方向確認用の小さな鏡が取り付けてあって、その中にうろたえる茶度の姿がはっきりとあった。
体ごとぐるっと振り向き、
「僕の後をつけてどうする気?」
詰め寄り、下からぐいと睨め上げる。
「いや、そうつもりだったんじゃない」
そう言いたいのだろうが、茶度の口からは「あ…」「う…」と母音ばかりがこぼれてくる。
「そこで、見かけたから」
「そこって?」
やっと言った茶度の顔と、その後ろに長く延びた道路を交互に見た。
「…歩道橋から」
「歩道橋って、バス停の所の?」
茶度は頷いた。雨竜が目の前でぽかんとしている。それもそうだ、あの歩道橋からここまで十分はかかっている。正しく帰っていれば、茶度は家に着く手前くらいだ。そのことに気付いて、雨竜は吹き出した。
「早く声、かければいいのに」
「ム…なかなか追いつけなくて」
「そんなに早く歩いていた?」
「ああ、何か考え事していたんだろ」
そう言ったが、本当は追いつこうしなかっただけだ。茶度のいつもの速度なら、雨竜が走りでもしない限り追いつけないことはないのだ。
追いつかず見ていたかったのだ。雨竜の後姿を。踵の最後まで。
「茶度くん、これから何かある?」
「いや…帰るだけだ」
「なら夕飯食べてかないか?」
「石田がいいんなら」
「ダメなら誘わないだろ、フツー。…あぁでも買い物してくから」
…遅くなるって、家の人に連絡して。そう言いかけて、
「行こう」
と踵を返した。
茶度が一人きりなのだと、思い出しだのだった。
◆
「テレビでも見てて」
部屋に入るなり、雨竜は玄関脇のキッチンに立ち、茶度は短い廊下の先の部屋で、言われたようにおとなしくテレビをつけて夕飯が並ぶのを待った。
随分前から聞かなくなった、包丁が俎板を叩く音や野菜の煮える匂いや、ご飯の炊き上がる匂いが心地良い。やがてその中で独特な匂いが強くなった。腹が減らずにはいられない匂い。
「急いで作ったから、ちょっとゆるくなっちゃったけど」
そう言って小さなテーブルの上には、どんと盛られたカレーと、昨日の残りだという煮物と冷奴。どれもうまそうなのだが、茶度の目はカレーの中に潜むものをじっと捕えている。
「何…あ、カレー嫌い?」
「違う…なんでカレーの中に緑の…が…」
確かにルゥの中には基本の野菜の他に、彩り悪く茄子とピーマンとブロッコリーがゴロゴロしている。
「えっ入れないの」
「普通入れないだろ!人参と芋と肉だけだろ、ブロッコリーは入れない」
「ウチは入れるよ、他の野菜もね。おいしいから食べてみなよ」
「そんなはずない、お前コレなんだか知ってるのか?花の蕾だぞ、花の!」
「知ってるよ。いいから、僕のはおいしいんだから」
自信たっぷりに言い切って、いただきまーすと雨竜はカレーの絡んだブロッコリーをこれ見よがしに口に運び始め、茶度も覚悟を決めたように、山盛りのカレーにスプーンを突っ込んだ。
茄子やピーマンはともかく、ブロッコリーだけはどうにも好きになれない。ターゲットを決め口に入れ、茶度のしっかりした顎が、がし、がし、がし、と動いた。雨竜は手を止めて、様子を伺う。
「……うまい」
茶度が驚いたように言ったのを、それみたかと雨竜は誇らしげに眉を上げた。
「こんなの、ブロッコリーじゃない、違う野菜だ」
「ブロッコリーなの!」
「いや違う。花の蕾がこんなうまいハズがない」
「…ったく頑固だなぁ。そんなに言うなら明日は『ブロッコリーでござい』っての作ってやるよ。これじゃカレーの味しかしないからね」
そんな言葉のやり取りで夕飯が済み、雨竜が洗い物をしている間、茶度はテレビをつけたまま手持ち無沙汰な様子で手遊びをしていたが、思い出したようにバッグからCDの包みを引っ張り出した。
「麦茶、飲む? … なにそれ、CD?」
「あぁ、さっき買ったんだ」
「前みたいな、ガチャガチャしたやつ?」
麦茶の入ったコップを茶度の前に置いて、雨竜がちょっと困ったように言うので茶度はウッと呻いた。少し前に、いつもどんな曲を聴くのかと聞かれてお気に入りのを一枚貸したのだが、彼には騒音でしかなかったらしく一日で返ってきたのだ。今日買ったものは、同じジャンルのCDだ。
ジャケットだけ見せようと、袋から出して彼はまたウッと言った。
「どしたの」
袋から出てきたのは、お目当てのものとは全く違う、男性コーラスグループのCDだった。あの時水色の言葉に軽く動揺していたせいか、隣に並んでいたものを確認せずにレジに出したのだろう。普段なら話題作りにレンタルするアーティストのものだ。
「それ、買ったんだ!」
ケースのアーティスト名が見えたのだろう、雨竜のワントーン上がった声に、茶度は戸惑った。
「今度借りてもいいかな」
期待に満ちたその声に、否は言えなかった。わざわざ聞くまでもなく、彼がこのアーティストのファンであることは分かる。
茶度は少しの間そのジャケットを見つめ、雨竜に差し出した。
「先に聴いてくれ」
「でも今日買ったばかりじゃ…」
「うまいメシの礼だ。聴いたら感想教えてくれ」
◆
あれから茶度とは帰りに会うと家で夕飯を食べさせるのが暗黙の了解になっていた。最初の日のように、雨竜が作ったものを二人であれこれ言いながら食べて、テレビを見ながら話をして茶度は帰っていくだけで何も変わりはなかった。
あるとすれば、茶度の専用の箸ができたこと。冷蔵庫にお茶ではない飲み物のペットボトルが一本増えたこと。そして、作って食べることが楽しみになったこと。料理は好きな方だが、時々一人で作って一人で食べることに空しさを感じることがあった。久しぶりに、食卓の楽しさを思い出していた。
作品名:PROMINENCE 作家名:gen