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PROMINENCE

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 このまままた延長しても、もう読むことはないだろうと思った。今まで借りた本を読み切らずに返したことはなかったから、少し悔しいが仕方がない。この一ヶ月近く、何の変化もないのに何故か時間が足りない気がしている。
 弁当が片付くと、水道でうがいをして図書室へ向かった。

 司書から軽い注意を受けて教室へ戻る途中、下から上がってきた織姫に会った。片手には黄色い小ぶりのランチバッグを持って、これから図書室へ行くんだ、と言った。
「最近石田くん、楽しそうな顔してるよね。何かあった?」
 ちょっとした話の途中で、織姫は唐突に言った。
「そうかな?結構忙しいんだけど」
「うん。前はここにこうギューッてシワが寄ってて、何にも面白くなさそうだった」
 織姫は自分の眉間をつまみ、ひどいしかめっ面をしてみせた。ご丁寧に顎にはウメボシまで作って、雨竜は一瞬唖然とし、吹き出した。
「そんなヒドイ顔?」
「してたしてた。何か良い事あったんでしょお… あ!分かった、私分かっちゃった!」
「い…の上さん…?」
「んふふっいいの、みなまで言うな、石田くんっ」

 ちょうどその時、二人のいる階段と壁一枚挟んだ隣の男子トイレから茶度が出てきた。ドアから廊下までは一メートルほどあって、両側はやはり一メートル幅で壁に塞がれているので、出てもすぐに廊下や階段を行く人とは顔を合わせることはない。半歩廊下に出て、すぐに階段の所で雨竜と織姫が話をしているのが目に入り、さっと足を引いた。

 何故隠れた?あのまま出て行ってもおかしいことなど何もないのに。

 楽しそうな声が聞こえ、茶度の胸の辺りに何か黒いものがじわりと染みた。
「私、今の石田くん、好きだな」

 黒いものが胸いっぱいに広がって、またじわり、と蠢いた。

「ありがとう 井上さん」

 その二言だけがはっきりと耳に残り、他に聞こえたはずの言葉は皆どこかへ行ってしまった。茶度は壁に設置された非常ドアの凹みに、力なくもたれかかった。水色の言葉が蘇った。いいじゃないか。それが普通だ。なにもおかしいことでは。むしろおかしいのは自分のこの


アアソウダ オカシイコトナンテ ナニモナイヨ



「でも井上さん、恋人ができたとか本当にそういうんじゃないから、ね」
「分かってるって」
『絶対分かってない…』
 半分からかうように、楽しそうに笑う織姫とはそこで別れて、雨竜は教室へ戻った。
「恋人、ね」
 そんなヒマないよ、と一人ごちてふと足を止めた。

 今、誰かが頭をかすめなかったか。
 ごく身近な誰か が。

 やがて予鈴が鳴り、本鈴と共に午後の授業が始まった。
 雨竜は頬杖をつき、何事かを考えていた。一度だけそっと茶度の席を見たが、そこに彼の姿はなかった。



          ◆

 その日、歩道橋の下に茶度はいなかった。次の日も、その次の日も。テストが始まる前の日もいなかった。
 元々約束して彼は来ていたのではなかったから
「どうしたの?」
 と聞くのも不自然に思え、雨竜はそのことには触れなかった。
 それがテスト後二日経ち、三日経ちしてくるとひどく気になり始めた。しかし聞こうにも教室ではしにくく、帰りがけに、と思うとまるで魔法のように茶度は姿を消すのだった。
 今までのことがあるだけに、この茶度のおかしな行動は雨竜を苛つかせた。教室でダメなら、と一週間ほどしたある放課後、雨竜は昇降口の近くで茶度を待った。

 程なくして、雨竜のいる反対側の廊下の向こうに茶度ののっそりと歩いてくるのが見えた。一人だった。
「茶度くん」
 下駄箱に差し掛かった辺りで、茶度は自分を呼ぶ声に顔を上げそうになり、相手が雨竜だと分かるとすぐ視線を背ける。
「………なんだ」
「今日、ウチに来ないか」
「忙しいんだ、悪いな」
 一度もこちらを見ないまま言う茶度に、雨竜は食い下がる。
「他の日でもいいんだ、ホラ、CD返したいし」
「あれなら返さなくていい、お前にやる」
 早口で言って、上履きと下履きを替え、三和土の上に下ろす。
「…茶度くん、最近おかしいね。僕、何か気に障ることでもした?」
「忙しいんだ。お前だってそうだろう?」

 井上と……。

「僕のことはいい。君の話だ」
 雨竜の不満は顕著だった。だが、それに応えるうまい言葉が見つからず、不自然だと分かっていても茶度はそれきり黙りこんでしまった。雨竜の顔を見ることができない。自分の気持ちをはっきりと認めずに、あの日胸に生まれた黒い感情を捨ててしまいたかった。
 靴を履く背中で、やはり同じように黙ってしまった雨竜の気配を伺っている。下校や部活へ向かう生徒に混じって、茶度はドアへ一歩、踏み出した。とその時
「はっきり言え、バカヤロウッ」
 声を荒らし、殴り付けた背中はビクともせず、雨竜には一言もないまま遠ざかっていった。
「…何なんだよ…」


 帰り道はいくらでもあった。が、気がつくとまたいつもの歩道橋のところまで来ていた。
 十月に入り、陽が落ちるのが早くなったせいか階段の所に立って橋の上を見、道路の向こう側を見たが物や人は形でしか分からなくなっている。
 バンドの練習の後は必ずここを通るのだ、と前に聞いたことがあった。もう一度、きちんと話をしたいと雨竜はそこに茶度が現れるのを待った。
今年最後の台風が近づいていて、風がひどかったが手摺りの仕切りを風除けに、階段の隅に座った。昨夜のニュースでは、今日にもこの街を通るだろうと言っていた通り、空には重い雲がのっぺりと広がり建物を押し潰そうとしているかのようだ。

 こうも避けられるのは、やはりなにかあって嫌われたのだろうか。ならあの楽しかった数日を、自分も忘れなければならない、と思った。ケリをつけるために、逃げるわけには行かないのだ。今日がバンドの練習日である保証はない。別な道を帰ったのかもしれない。様々に思いついたけれど、雨竜はじっと座り待ち続けた。


 ポツ、と冷たいものが雨竜の手を叩いた。それに気付くかそうでないかのうちに、大粒の雨が降り出して道路はたちまち浅い川になる。髪をぬらす雨が流れて顔を洗っていく。制服はどんどん水を吸って重くなり体に絡みついた。茶度は、まだ現れない。


あと少し。後、十分だけ。
言いたいんだ。好きなんだ、と。


 そんな思いなど撃ち砕くように、銀の弾丸は雨竜の上に延々と降り注いだ。


          ◆

 どのくらい経ったのか。幾分雨の勢いが弱まった頃、アパートの灯りを目指し歩く雨竜がいる。服もバッグも靴も、自身の外も内もグズグズで、なんだか分からない一つのものになってしまったように、無心で歩いている。
 茶度が唇の端に触れたあの日、追いかけた角の辺りでふと立ち止まり、自嘲した。雨のせいで用をなさなくなった眼鏡を外し、その手で顔を覆う。

 何をやっているんだろう

 そう呟いて、同じ手で顔を流れる水を拭い、またアパートの街灯へ向かい歩き始めた。
その、街灯の設置してある階段の影に人影が見えた。傘も差さずに立っているその人は、雨竜が歩いてくるのに気付くと、灯りの下に出てきた。
「……忙しいんだろう」
 この期に及んでそんなことを言う、自分を恨みに思った。
作品名:PROMINENCE 作家名:gen