或る日
それはその頻度である、兄の一晩限りの飲み歩きはひと月で数える程度であったが、あの日を迎えて以降、否、本当はあの日を迎える以前だったかもしれないが、連日連夜、店を替え、土地を替え飲み明かしていた。
数日前などは家から鉄道を使っても一時間以上もかかる酒場で飲んでいるという連絡が入り「勝手にしろ」と、電話を切った。
「早く乗ってくれ」
そう促すと、兄もまた千鳥足でフラフラとドアに近づき緩慢な動作で扉を開けた。
どっ、とシートに沈む様にして腰掛けると車体が大きく軋み揺れた。このまま、寝てしまうのではないか?と兄の様子を辟易しながら眺め、自身も運転席に乗り込んだ。
はぁ、と溜め息とも付かぬ息を手に吹きかけると、息は目に見えて白く、こんな事ならば手袋をしてくれば良かったと軽く手を擦り合わせ車のエンジンを入れた。
兄があちらから帰って来る時に乗ってきたこの『随伴者』の意味を持つ車は文字通り、再び暮らし始めた兄と自分の生活にひっそりと付き従ってきた。排ガス規制の強化に伴い、規制に確実に引っかかるであろうこの車を改良し、なんとか特別に走行許可をもぎ取ってきたのは意外な事にルートヴィッヒだった。兄はそんなルートヴィッヒを見て、そこまで、ムキにならなくてもいいのによ、とブツブツ文句を言いながら「とっとと、アウディに買い替えろよ」と皮肉を言った。しかし、そう言いながらも自分に向けられた兄の瞳はやっと訪れた春の日だまりの様に暖かく、心地の良いものだった。
ステアリングを握るルートヴィッヒの顔が暗がりでも険しいものだと悟ったのか、
「怒るなよ、お前が心配する様なヘマはしてねぇよ。オッサンの話に適当に相槌打ってただけだ」
と、言い訳がましく呟いた。その後も兄は人の気も知らず、酒臭い息を車内にまき散らしながら「あの店のカリーブルストは最高だった」「ビールと一緒に流し込むやり方を教わったんだ」「お前も一度やってみろよ」と、取り留めない話を少し怪しい呂律で捲し立てていた。
それを聞くとも聞かぬとも知れぬ素振りでルートヴィッヒは黙々とステアリングを握り続けた。
ちら、と隣の兄を見ると、アルコールで今にも蕩けそうな目を擦り、大きな欠伸をする姿が目に入った。その姿を見たとたん
ーこの上機嫌な酔っぱらいを困らせてやろうか?
と、思った。
「兄さん、俺に何か言いたいことがあるんじゃないか?最近の兄さんは少しおかしい」
沈黙が訪れた。
車内にはただ、エンジンの走行音が響くのみ。視界は闇に近く、時折すれ違う対向車の光が一瞬車内を照らし、それが過ぎ去ると再び薄暗い闇が充満した。ルートビッヒはその間、前方をじっと見つめていた。
すまない、俺が悪かった、そう言いかけた時、兄が口を開いた。
「さっきのオッサンな、東の出身なんだ」
と、ルートビッヒの質問に対しての答えとは全く見当違いの答えが返ってきた。
そのまま兄は先刻の男の話を始めた。東に生まれた男が物心ついた時には壁は築かれ、東と西は完全に別世界であったという。そして、そんな東が全てであった男の前に西という新世界があの日広がった。
男にとっては新世界そのものだったという。若さという武器も手伝って、故郷を捨て新世界へ旅立った。しかし、この世界に広がるのは輝ける新世界でもなければ、甘美なる楽園でもない事は誰しもが知っている事だ。
望郷の念か、現実を生きる事の辛さか、そこからの話をお決まりの苦労話と取るか、真摯に一人の男の人生の物語として捉えるかは聞き手次第と言った所だが、話の終わりに男は顔をくしゃくしゃにしながら「色んな事があったが、もうすぐ孫が産まれる」と話したという。そして、最後に
「ヴェスト、俺と一緒になって本当に良かったか?」
と、呟いた。
アンタはわざと俺を怒らせようとしているのか?この話は二十年前のあの日からしてきたじゃないか
そう言いそうになり、
二十年を迎えたから、こそかー
と思った。その年月を短いと取るか、長いと取るかはそれぞれであるが、自分達と違って『ヒト』は有限の時を生きる生き物だ。その一瞬を力の限り泳ぎ、もがき、駆け抜ける。それが『ヒト』の一生だ。
そんな彼等に対して自分達が何を与え、何を奪うのか?
かつての王国と、また自分の積極的な意志ではないにしろ一つの国と、二度も失った経験を持つ男が考える事は自分が考えるよりも、もっと根が深く、重く、苦しいものなのかもしれない。
「良かった。その事に対して後悔はない」
きっぱりと言い放った。兄の考えが僅かだが知れた事に対しての嬉しさよりも、苛立ちの方が大きかった。
「『俺達が本当の意味で民にしてやれる事は何一つない、俺達に出来る事はただ、見守る事だけだ』そう俺に教えたのはアンタだ。俺も今それをやっと実感出来る様になった。歴史の場面で何かを変えるのは何時だって名も無い人々の力だという事を知っている筈だ。だから、俺達が出来る事は見守る事しかない、俺はそう思う」
そう、ルートビッヒは言葉を一気に吐き出しだ。半分は自分自身に言い聞かせていた。果たしてこの答えが正解なのかも分かりはしない。最善の答えだと信じたものが最悪の結果を引き起こした事は何度もある。しかし、ルートビッヒはその言葉を信じたかった。『ヒト』の力を『民』の力を信じたかった。無責任と詰られそうだが、その境地に至るまでは、この身から水も血も無くなまで彼等の為に奔走する覚悟は出来ている。
一気に言葉を吐き出した事でルートビッヒは全身がうっすら汗ばんでいる事に気が付いたと、同時に珍しく感情的な部分を晒してしまった事に若干の羞恥を覚えた。
スン…と、鼻を啜る音がする。兄が泣いているのだろうか?と、思いはしたが、違った。
「おい、ヴェスト。車、ちょっと止めてくれ」と、先刻までの話を聞いてなかったかの様な口振りで兄が言った。何時の間にか、自宅まであと僅かという距離まで来ていた。怪訝の眼差しで兄を一瞥すると、数回にブレーキを分けて踏み、静かに路肩に寄せた。
「止まってどうするんだ?」
「家まであと少しだろう、酔いを醒ましがてら歩くわ」
そう言うと、シートベルトを外し出し、その動作は的確で、もう酔いなぞはとっくに醒めているのではないかと思われた。
兄の突然の申し出に対し、やめろ、とも勝手にしろとも言い兼ねていると
「ルッツ、お前まっすぐないい男になったな」と独り言の様に呟いた。
久しぶりに愛称で呼ばれた事に瞬間鼓動が跳ねた。
「だけど、大概に盲目的で甘い」
何に対して盲目的で甘いのか?と問いたかったか、何故だか聞く事はできなかった。
暫く沈黙があったが、先程の様な重苦しいものではなかった。エンジン音だけが早鐘の様に響く。そこから伝わってくる振動すらも今は心地の良いものに感じた。降りないのか?と問うと
「ヴェスト」
と、悪巧みをする子供の様な声色で自分を呼んだ。何だ?と言う前にコートの合わせをぐっと掴まれ、助手席まで引き寄せられた。シートベルトが限界まで伸びて胸が圧迫されるーそう感じていると荒々しく唇を押しあてられた。
乾燥して酒くさいだけの兄の唇。だが、不思議と不快感はなく温かく感じた。
乱暴に手を離すとマフラーをむんずと掴み、ドアを勢い良く開け放った。