INTERLUDES
「ここから先は、何日歩こうと、宿はおろか民家だって有りはせんぞ」
退出際、宿に手配してもらった医師は気難しい面持ちで言い募った。
「屈強さが自慢の連中でさえ、太刀打ちできん魔物が跳梁する土地だぞ。みすみす死にに行くつもりかね」
室内は、冷水に浸した薄荷の清涼な香りが漂っていた。
カインはまだ眠っており、アレンは清潔な手で病人の額の布を取り上げると、冷たい水に浸してまた乗せ直した。
考えはまた最初に戻り、その決断を下せないまま、アレンは静かに傍らの椅子に腰を下ろした。
責が自分に有るのは事実だ。
恵まれた体力に慢心し、相手にまで考えが及ばなかった。
その無神経さが、過労で倒れるまで彼に無理をさせてしまった。
“今ならまだ間に合わないことは無い―――”
アレンは何度もそこまで考えては、また逡巡した。
今決断しなくては、前進すればするほど引き返すことは難しくなる。
カインに本来必要なのは十分な休養であり、静かで安全な環境だった。
彼の身を案じていたサマルトリア王やティア姫の記憶が、ありありとアレンの脳裏に浮かんだ。
このまま果てしもない血みどろな戦いの場に、これ以上彼を引き摺っていくべきではない。
ムーンペタに駐留するサマルトリア兵に託し、本国に送還させることも、今ならまだ可能だ。
彼の魔法攻撃と治癒呪文による恩恵の大きさを考えると、孤立無援になることに愕然となるが、アレンはその感覚を押さえつけた。
カインは明け方頃目を覚ました。
外は白んできていたが、室内はまだ夜のままに暗く、ひやりとして静まり返っている。
こうして気が付いた時、いつか自分は一人になっているかもしれないと、いつもあれほど怯えて夢から覚めた事を思い出した。
それがいざ現実になってみると、凍りつくような孤独とともに安堵の気持ちが波のように押し寄せてくるのを感じた。
縋りつく希望がもう何一つないということに、歪んだ喜びにも似た感情が呼び起こされるようだった。
体は鉛のように重く、だるい。
やはり自分は結局何の役にも立たないまま、アレンの足手纏いでしかなかった。
目頭の奥が刺すように痛み、顔を伏せるように体を反転させると、無人の部屋の隅にあるアレンの荷物が目に入った。
手をついて上体を起こして頭をめぐらし、窓に目をやってここが二階だと気付く。
見下ろせる宿の敷地で、一人で剣を構えるアレンの姿があった。
法定通りの構えをとり、呼吸法を伴う完璧な形で一気に素振りが繰り出されると、空を切る音さえ聞こえてくる。
体を駆使する技には、一日として鍛錬の怠りは許されない。
張り詰めた空気は、階上のカインにも感じられるものだった。
太刀筋のほんのわずかな毛筋ほどの乱れが、アレンの迷いを表していることにカインは気付いた。
身が竦む思いがカインを捕らえ、カインは自分の胸元を掴んだ。
音が立たないよう慎重に扉が開かれ、アレンが戻ってきた。
「ごめん、起こしてしまったかな」
仰臥したまま、いや、とカインは答えた。
「気分はどうだ?なにか食べるかい?」
アレンはそこで、医者に処方してもらった水があるのを思い出した。
清水に蜂蜜で甘みを少しつけ、岩塩を一つまみの何分か一ほどだけ加えたものだった。そして、この地方の香りのよい柑橘の果汁を数滴、香り付けに加えてある。
「食欲がなくても、水分はしっかり摂った方がいいって……」
「―――もうとっくに行っちまったと思ってたぜ」
言葉とその声に、アレンは水差しを手にしたまま打たれたように振り返った。
「そんなこと、するわけないだろ!」
そのまま口を閉ざすカインに、アレンは椅子を引いてきてベッドの傍らに腰掛けた。
「カイン、聞いてくれ。君は自分を過小評価しすぎてる。僕がここまで来られたのは、他でもなく、君が居てくれたからだ」
アレンは努めて声を抑えて語りかけた。
彼はそこで一度、黙り込んだままのカインを伺うように口を噤んだが、また言葉を続ける。
「僕はこの通り、剣しか遣えない。だから間合いを取られて遠方から攻撃されたら、もう、太刀打ちできない。でも、そんなとき、君がいつも助けてくれる―――」
アレンが言葉を切ると、部屋は静寂に包まれた。
カインは横顔を見せたまま微動だにしなかったが、アレンは彼に語りかけた。
「―――もちろん、それだけじゃない。ともかく、君が居ないと、僕一人では駄目なんだ」
カインの白い咽喉がかすかに上下し、やがて彼は顔を逸らし、寝返りを打ってアレンに背を向けた。
しばらく沈黙が続き、アレンが不安を感じ始めた頃、カインの背中が答えた。
「―――いいのか?俺なんかが一緒の旅で―――」
「今言っただろう」
アレンは、カインの背にもう一度告げる。
「僕は、君が必要なんだ」
自分の動悸が、相手に気付かれずにいられることを祈った。 これがどれほど本心を打ち明けたものか、彼は気付いてないはずだ。
語りかけるというより、独り言を告白するように、カインのかすかな声が聞こえる。
「置いていかれたら、這ってでも追いかけるつもりだった……」
「僕は絶対そんな―――!」
アレンは弾かれたように返す。
その目の前で、カインが向き直り、手をついてゆっくりと体を起こした。
押し留めようとするアレンの手を控えめに遮り、ベッドから両足を降ろす。
「おまえと一緒に行っていいのか―――?」
カインはまだ顔を伏せたままだった。
目元にかかる前髪で、表情ははっきりとは見えない。
「僕がそう頼んでるじゃないか」
カインは横を向いた。
「でも、また、もし、俺が旅を続けらなくなるような醜態を見せたら、今度こそ、置いていってくれ」
アレンはすぐには返事ができなかったが、自分の答えは一つしかない。
だが、それを重く押し付けるのも憚られ、言葉の上で、喜劇のように受け流した。
「―――それはまた、そのとき考えるさ」
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