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あなたが銀河に戻るまで

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 ティエリアは流したままだった涙を袖でぬぐって、「ここにはないぞ」、とアレルヤの言葉に、わずかながら微笑む。アレルヤは、ああこれでいいんだ、と思った。ティエリアは頷かなかったが、彼にはそれで十分だった。

 彼が次に瞬きをして、目を開けると、そこには見慣れた天井が広がっていた。
 あのコンパートメントも規則正しい揺れもティエリアもいない。
 ただひとつ同じだったのは、窓から見える景色だけだった。そこにあの惑星はなかったが。





2. 金色のほし



 静かな羊水の中を泳いでいるような感覚だった。これはそう、あの、安らぎも暖かさもひっくるめて、押し寄せてくる一種の欲求の波だ。刹那は思った。
 水の中は暖かで心地よかった。耳を澄ますと心臓の音がする。どくんどくんどくん、と聞こえてくる波を彼は静かに受け止めた。呼吸は穏やかだった。
 水の中であれば、呼吸をすることは叶わないが。
 刹那は瞼をゆっくりと開けた。水面が鏡のように揺らめいて、光を反射させて波打つ。
 呼吸を止めた瞬間、彼の頭の中にはひとつの広い海が思い浮かんだ。
 それは大切なものを失った、闇を静かに湛える、終わりのない海だった。

***

「刹那」
 そう呼ばれて、彼は目を覚ました。声は聞いたことのあるものだった。規則的に揺れる、縦の振動を感じる。
 自分がベッドの上にいないのがわかると、刹那は終わりのない夢を見ている気分になった。本当の所へ帰られる気がしない。「ティエリア」、?、と刹那は、目の前の人物に、名前を、尋ねるように呼んだ。彼がなぜだか、いつもと違う、やわらかい雰囲気をしていたものだから。

 ティエリアは刹那が目覚めたのを確認すると、ふっと表情を和らげた。「今より若いな。四年前か」、とティエリアは言う。刹那は首をかしげた。
 四年前?何のことだ?とティエリアに聞いてみるも、うまくはぐらかされる。
 きてしまったのだから、しょうがない、とティエリアはそういった。珍しく、黒のコートを着ている。誰かの墓参りに赴いたような格好だ。仄かに百合の香りがした。
「そうだ、刹那。キミの記憶は今どこまである」、とティエリアは刹那に聞いた。聞いた相手は刹那であったが、彼は何かに取り付かれたように、ただ窓の空虚を見つめていた。

 刹那は無表情のまま、「どこまで?」、と問うた。ティエリアはああ、と一度頷き、「ロックオンは死んでしまったか。ソレスタルビーイングは半ば壊滅状態にあり、刹那、キミは一人で旅をしているのかと聞いている」、そう刹那に問うた。
 刹那は少し驚いたように、顔を上げる。ティエリアと目が合った。「まだ、旅といえるのかがわからない」、と刹那は答える。
 そうか、と静かにティエリアは頷いた。じゃあ、刹那、君はまだこの先をしらないでいるのか、と、納得したように頷く。刹那はわけがわからないまま頷いた。この先に何があるのか、さっぱりわからなかったからだ。

 ティエリアの言わんとしていることが、まったくといっていいほどわからない。刹那は困惑した。
 最後に会った彼は、ロックオンを失ったことで、刹那に自身の行き場のない怒りを当てるほど荒れていた。無謀なミッションを、それでもやるといい、戦地に赴いた後、生死すらわからなかった。ただ、生きていることを、信じていたといえば、そうなる。
「それなら、いいんだ」、とティエリアは刹那にそういった。
 そして、思い出したように、「見ての通りだが」、と、ティエリアは、自分と刹那のいるコンパートメントを見渡し、手を広げる。
 そして、「夢の中だ」、と告げた。
 刹那はああ、と頷く。「知っていた」。

***

 二人はコンパートメントを出て、通路を通り、展望室にある席に座っていた。相変わらず耳にはカタタン、コトトン、と絶え間なくリズムが響いている。
 刹那はうすぼんやりとした遠くの光を見上げながらティエリアの話を聞いていた。ティエリアはその光の星について先ほどからぽつぽつと話をしている。
 二人の間には心地よい呼吸の音と、声と、衣擦れの音があった。空気が和らいでいると思っているのはティエリアで、空気におぼれそうだと思っているのは刹那だった。二つの感覚が混ざり合って、不思議な浮遊感になる。二人のどちらともが、それを嫌いではなかった。
 汽車の中には重力があった。通路を歩く途中で、刹那はそれに気が付いたのだった。だから、もちろん涙は丸く、気泡のように宙には浮かないし、脚には自身の体の重みがある。
 展望席は、窓に向かって座席が備え付けられていた。窓は横に広く、つながっていて、遠くの黒檀まで―ただ、もうそれが近いのか、遠いのかという遠近感は、まったく感じられず、まるで、絵のようだったが―一望できる。座席はたった二つしかなかった。それ以外、必要がないからだろう、と刹那は思った。
 どうやらこの乗り物に乗っているのは、自分とティエリアの二人だけだろうと気が付いていたからだ。
 ティエリアは何も言わないが、ティエリアの意思次第で、何とでもなるのだろう。展望席が、本当に最初からあったのかも怪しい。

 今一番、窓の外で輝いている星は、金星と言った。他に、神話の女神の名前がつけられている。ティエリアが刹那にそういった。
 地球ととてもよく似た星だとも、言った。刹那は星の名前や、星そのものについてはあまり知識がなく、ましてや学んだこともない。
 ただ地上から、彼の光を見たことはあった。まぶしいくらいに存在感を放っている。刹那はあまり、その星のことを好いてはいなかったのだけれども。
 ただまぶしいだけならば、よかった。その星は美しかった。刹那は見るたびに目がくらみ、足元を見れなくなった。釘付け、という言葉の通り、視線をたったひとつ、人でも景色でもない、光に奪われた。金色は刹那の目の中でも瞬いた。
「強行に、何らかの方法で、テラフォーミングを行えば、住めない星じゃない」、とティエリアは言う。「けれど、住もうと思う星でもない」、と刹那が続けた。ティエリアもそうだな、と頷く。「ここから見ているほうが、夢を、まだ見ていられる」。あそこは地表でも四百度だ、「しかも、それを下回ることがない」。
「…住めないな」
「だろう」
「ああ」、と刹那は頷いた。
 二人の間に、二人以外の人間の話題が出てこないのは、初めてのような気がした。

 刹那は不思議と、自分がどうしてティエリアの夢の中に来てしまったのかを、その時やっと、わかった気がした。「これから、俺は」、と刹那がティエリアに聞く。ティエリアはなんだ、と先を促した。「何か、を」、見つけられるんだろうか。
 形のないものだ、自分の行動でさえ、何が正しいのか、間違っているのかわからない。壊してしまったものがどう変わっていくのか、刹那には検討が付かなかった。
 歪んだものを壊して、けれどそれで本当に、世界は変わったのだろうか?
「それはいつか、君が、君で、見つけるさ」、とティエリアは言う。刹那は、この先の自身のことを、ティエリアは知っているのだろうと思った。「そうか」、と、それだけ、いつものように頷く。ティエリアも、そうさ、と頷いた。少しばかり、苦笑が混ざっている。
作品名:あなたが銀河に戻るまで 作家名:みかげ