あなたが銀河に戻るまで
聞いてみればよかったな、とティエリアはひとつため息をついた。このまま順調に進んでいくのならば、終着点がどこか、わかった気がした。
ティエリアは静かに目を閉じた。目を覚ました頃には、きっと誰かがまた、呼んでくれるだろうと思った。
7. 記憶の海
規則正しいリズムに体は揺れていた。
目をあけると、斜め前に誰かが腰掛けている。まっすぐに切りそろえた肩くらいまでの髪を、少し揺らして彼は座席に腰掛けていた。
「ティエリア」、と刹那はティエリアを呼ぶ。ティエリアは「何だ」、といつものように平坦な返事を返した。窓の外をじっとみつめている。窓の外には遠く見える星が、ノイズをばら撒いた絵のように張り付いていた。
カタンカタンと電車は揺れる。ティエリアは静かに泣いていた。窓をずっと見つめたまま泣いていた。「どうして泣くんだ」、と刹那は気になって聞く。涙は宙にうかず、ただ頬をつたって流れ落ちた。外はどう見ても宇宙なのに。「刹那」、とティエリアは言った。なんだ、と刹那は聞いた。ティエリアは「また、来たのか」、という。
また、という言い回しに刹那はすこし疑問を抱いたが、ティエリアも別にその真意を言うつもりはなさそうだった。「どうして泣いているのかと君は問うたが」、とティエリアは言った。「ああ」、と刹那は頷いた。ティエリアは流れる涙をそのままに、ぬぐうこともせずに、「わからないんだ」と答えた。
「理由もなく泣くのか」
「君は泣かないな。…泣けないと言った方が正しいか?」、質問に質問で返された。
コンパートメントは二人きりで、外の通路や、他のコンパートメントから人の声も気配もしなかった。「この汽車には俺たち以外乗っていないのか」、と、刹那はまた別の質問をした。ティエリアは「おそらくそうだろうな」、そのはずだ、と続ける。
刹那はどういうことだ、と聞いた。「夢ということはわかっているだろう」、とティエリアは聞いた。もちろん、そうだろうという気はしていた、と答える。
夢以外考えられるはずがなかった。たしかに自室のベッドに横になったはずなのだから。刹那は頷いた。夢だろう、ともう一度断言した。
「そういうことだ」、とティエリアは言う。なるほど、納得するしかない、というのなら、そうするほかにないのだろう。刹那は思った。
夢だ。夢だから、何だってありうる。再会してから、涙ひとつみせずに、むしろ泣いているものを叱咤するくらいだった彼が、どうして、「ここで泣いているのか」。刹那はは聞いた。ティエリアは曖昧に―珍しく、―笑った。視線はずっと窓の外だ。
ティエリアとの間の沈黙は、とても心地よいと刹那はおもう。逆に、ティエリアもそうなのだろうかと、疑問に思ったことがある。
いわなくてもわかる、といわれたあのときや、目配せで意思を伝えたあのときのように。「前々から聞きたくて、聞けなかったことがある」、とティエリアは静かに言った。
「最後にあの人を見たのは君なんだろう、刹那」。あの人がすぐだれかわかって、刹那はこくんと頷いた。
忘れよう、忘れようとおもって、もうずっと、夢の中でも白昼夢でも、何度も思い出した。ティエリアはそういう。「よく考える。『ロックオン』が来てから、別人とわかっていても面影は追ってしまう。彼はあの人じゃないとちゃんとわかっているし、同じとも思わない。あの人はあんな奴じゃなかったと、わかっている」、けれど、刹那。
「どうしたって思い出す。夢から覚めるたびに思い出す。自分のやることもやりたいことも全部投げ出して、こうやって夢の中で、窓の外へ行きたいと何度もおもう。行ってあの人をさがして、さがして、思い切り怒鳴りつけてやるんだとそればかり考える。でもそれはかなわなくて、わけもわからずに俺は泣いているんだ」。刹那、君はもう三回目だ、覚えてないだろうが。
君といると不思議なんだ、不思議と落ち着けるんだ。ティエリアはそういった。そうか、と刹那は頷いた。二人の間にそれ以上の会話はなかった。互いに、それが心地よいと思う。
ティエリアは、五年前より、その、ずっとまえより、今の距離がやはり好きだ、と思った。
窓の外に見える星は闇の中にぼんやりと浮かんで、冷たく輝いていた。「あれは」、と刹那はティエリアに聞いた。「なんだ」、と、ティエリアの顔を伺う。「天王星」、とティエリアは短く答えた。
「本当は違う神の名前がつけられるはずだった。けれど、その神は対応する名前が、忘れ去られてしまうほど、人の記憶から希薄になっていた。だから今ついている名前は本来つくはずのもの、じゃない」、と答える。
そうなのか、と刹那は頷いた。神はいないが、「人は神の名前だけは知っているんだな」。たしかにそうだな、とティエリアも頷いた。触れてはいけないもの、触れられないもので、まだ解らないことが多すぎるもの、だからじゃないか、とティエリアは言う。
そういうものの象徴として神や神話はよく使われる。あたらしいものを作り出すよりかは、そっちの方が伝わりやすいんだ。「得体の知れないものだという知識が、もう人の中にはいってしまっているから」。
刹那はそうか、と頷いた。ティエリアはふ、と軽く笑う。「わかっていない顔だな」、と、刹那を笑った。「でも、それが普通だ」。
「もう、何日もいるのか」、と刹那はティエリアに聞いた。三回、といっていたが。何がかはわからないが、もしかして、ここにずっといるんじゃないか。「少し、顔が疲れてる」、と、刹那は手のひらをティエリアに近づけた。ティエリアはそれを拒まずに受け入れた。冷たい、とティエリアは言う。
それから、目を閉じて、「…本当は泣くつもりなんてなかったんだ」、とティエリアはつぶやいた。
刹那は一瞬、何のことを言っているのかよく分からなかった。そして、刹那が目を覚ました後に泣いていたことをいっているのだろうと思った。
「解ってしまったような、気がするんだ」、とティエリアは言った。刹那の手にすがるようだった。
「最後の星は、外れていったから」、と、ティエリアはそう言ったきり黙り込んだ。刹那はただその次の言葉を待っていた。「刹那。僕はこの汽車が進んでいくのが怖い。あとひとつしかないんだ。二つだとおもっていたのに、最後の一つは外れてしまって、もうこの囲いの中のひとつじゃない」。多分、今までと同じだというのなら、多分あそこについてしまえば、そうすれば、あの人が来るんだろう。ティエリアはそういった。ほとんど独白に近かった。刹那はただ、頬に添えた手を、逆にぎゅうと握られるのを、じっと耐えていた。
これくらいの痛みでティエリアが大丈夫だというのなら、目を瞑って耐えていよう、と思った。
ふっとティエリアが何かに気がついたように、しばらくして顔を上げた。どうした、とたずねると、ティエリアは「なんでもない」、とつぶやいたあとに、座席から、刹那の方へ、身を乗り出した。
そのまま額に唇が触れる。「もうくるなよ」、とティエリアが言った。
がたんごとんと、わずかにゆれる音が心臓の音だと刹那が気がついたのは、夢から覚めた後だった。
8. てのひらの中の宇宙
作品名:あなたが銀河に戻るまで 作家名:みかげ